今季限りで引退の稲葉篤紀 日本ハムを支えたその特異な成績推移

能力を発揮しきれなかったヤクルト時代

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稲葉篤紀のRCAA(得点創出力の平均との差)の推移 ヤクルト時代

 札幌五輪の年に生まれ、札幌に本拠地を置くチームで選手生活から引退することになった稲葉篤紀は、法政大学の主力選手として活躍し1995年よりヤクルトスワローズでプレーした。

 入団直後の3年間はかなり強力な打撃を披露し、確固たる地位を築きつつあるように見えたが、その後はケガもありフル出場できないシーズンが見られるようになる。出番の減少につれて打撃成績も下降。ある程度の強打が求められる右翼手としては少し物足りない成績のシーズンが続いた。

 2001年には138試合に出場しOPS(出塁率+長打率)で.912という成績を残し、ヤクルト時代ではベストのシーズンを過ごす。球宴にも出場した。しかし翌02年は一転キャリア最低の成績に終わり、不動の地位を築くには至らなかった。

 結局ヤクルト時代は今、我々が知っている稲葉の能力は、正当に発揮できていなかったことになる。セイバーメトリクスのファンの間でも、率系の数字の高さから、出場機会など条件に恵まれれば大爆発するかもしれないという指摘はあった。だが、これほどまでの息の長い活躍を期待している人は見かけなかった。

 04年のシーズンが終わると、稲葉はメジャー挑戦を表明。舞台裏については証言が様々あり、外部から正確な事情をうかがい知る術はないが、米国はおろか日本でも稲葉獲得に動く球団は少なかった。そして、札幌に本拠地を移転したばかりの北海道日本ハムファイターズにやってくることとなった。

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