“最後の夏”に向かう名門 PL学園の黄金期は?

KKコンビが刻んだ偉業

 そして1983年は桑田真澄選手と清原和博選手が登場。桑田選手は夏の甲子園準決勝で、当時、夏春2連覇中の池田を完封。さらに本塁打を放ち、多大な注目を浴びるようになった。そして清原選手は、決勝戦の横浜商戦で本塁打を放ち、優勝に貢献した。ここから「KKコンビ」の伝説が始まる。

 1984年選抜は準優勝、1984年夏も準優勝、1985年選抜はベスト4と甲子園に当たり前のように出場し、常に優勝争いを繰り広げてきた。しかし1年夏に優勝した2人にとって、甲子園優勝を逃してきたことは、歯がゆいものであった。そして1985年夏は決勝まで勝ち進み、清原選手が大会新記録となる5本塁打。5本目を打った時、当時のABCアナウンサーの植草貞夫氏が発した「甲子園は清原のためにあるのか!!」は今でも名言として語り継がれている。

 こうして2年ぶりとなる甲子園優勝を果たしたKKコンビ。その秋のドラフトで、清原選手は巨人または阪神指名を熱望していたが、なんと巨人が指名したのは桑田選手であった。清原選手は6球団の競合の末、西武から指名。巨人から指名がなかったことに号泣した姿するシーンも歴史に刻まれ、何度もこのドラフトをめぐっての特集が組まれるほど印象深いエピソードとなった。

 その2年後の1987年、立浪和義選手、橋本清選手など好選手を揃え、KKコンビが成し遂げられなかった春夏連覇を達成した。PL学園の長い歴史を見て、1978年~1987年はまさに黄金の10年だっただろう。この時はどんなOBがいたのかを以下に紹介していきたい。

RECOMMEND

KEYWORD

CATEGORY