決勝に挑む大湊は歴史を変えられるか 青森県の勢力図の変化

三沢の太田幸司が甲子園で旋風、青森の高校野球の歴史

 97年の光星学院の春夏連続出場以降、両校以外の甲子園出場としては、98年夏と10年夏の八戸工大一、13年夏の弘前学院聖愛、15年夏の三沢商しかない。八戸工大一と弘前学院聖愛は、2強の壁を崩すのには最も近い存在と言っていいだろう。とはいえ、その壁の厚さに泣かされている。15年秋も準々決勝で八戸学院光星に敗れ、東北大会では青森山田に上をいかれた。

 この両校がしのぎを削り合う前までの青森県の高校野球といえば、1969(昭和44)年の太田幸司(近鉄→読売→阪神)を擁した三沢の活躍が突出している。すべての面で松山商に比べると劣っている三沢だったが、白系ロシアの美青年投手・太田が黙々と力投して、甲子園ファンの共感を呼んだ。甲子園の高校野球ファンの間では今でも語り草になっているくらいだ。

 延長に入ってからは三沢が押し気味に進めていただけに、青森県と東北の高校野球にとって、最も優勝に近づいた瞬間かもしれない。しかし、結局1点が遠く引き分け再試合となってしまう。翌日の再試合では、選手層が厚く体力もある松山商がいきなり本塁打で先制し、連投の太田を攻略。太田投手は悲劇のヒーローとして甲子園を去った。

 三沢の活躍で火がついた青森県だったが、その前後は苦悩の時代である。40~60年代半ばころまでは青森と八戸の両旧制中学系列校と東奥義塾などが活躍していた。三沢以降では、男子バレーボールで全国優勝などを果たして一躍注目を浴びた弘前工や、スポーツ校として評価の高い弘前実などが目立っていた。五所川原農林やラグビーの強豪となっている青森北、三沢商なども甲子園に届いている。

 逆の目立ち方では、佐賀商・新谷投手があわや完全試合をやりかけて、27番目の打者が死球になった木造、鹿児島実・杉内投手にノーヒットノーランをやられた八戸工大一などがある。しかし、八戸工大一は、87年春にはベスト8へ進出した実績もある。木造は相撲部が強いことでも知られている。小兵力士で人気のあった舞の海の出身校でもある。また、98年夏には東奥義塾が青森大会1回戦で深浦相手に122-0というとんでもないスコアを記録したということで目立ってしまっていた。

 そんな青森県の歴史も忘れ去らせる、今日の八戸学院光星と青森山田の勢力である。だが、そんな勢力図を変えようとしているのが、今、旋風を起こしている大湊だ。初の甲子園まであと1つ。青森の高校野球界の歴史を変えられるか。

(記事提供:高校野球ドットコム)
http://www.hb-nippon.com/column/1504-se/10305-20160313no16se

【了】

手束仁●文

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