突然の休部で変わった野球人生 今も受け継ぐ名門野球部の教え

1年だけでも日産野球部でのプレーを希望

20160806_nakano
JFE東日本の中野大地氏【画像:篠崎有理枝】

 その年に入社予定の新人は中野を含め6人。休部を受け「入社しない」という選択も可能だった。当時の久保恭久監督からは「今後どうするか考えてきてくれ」と話があった。

「『本当に申し訳ない』と監督に言われました。それでも、新人6人全員、1年だけでも入社させて欲しいと伝えました。日産で野球をやりたいという気持ちで練習をしていました。野球を続けられるかわからなかったですが、まずは与えられた環境で精いっぱいやろうと思いました。野球をやりたい気持ちが強かったですが、休部後は社員として働くことも考えました」

 休部の年の都市対抗野球大会が終わったころ、JFE東日本野球部から移籍の話をもらった。千葉製鉄所の近くで生まれ育った中野には、「JFE東日本」という会社には馴染みがあったという。

「自分の地元の企業ということもありましたし、大学生の時にもお話をいただいていて、もう1回声をかけてくれるなんて本当にありがたかったので、移籍を決めました」

 中野は移籍後初年度からレギュラーとして活躍。その年の都市対抗野球大会では8強入りを果たした。

「会社も違うし、チームも違う。もちろん、雰囲気も違いました。JFE東日本では新人でしたが、日産で1年やった経験を活かした方が、自分のためになると思って遠慮せずにやらせてもらいました」

 JFE東日本野球部に移籍してきた当初、「こういうノックやっていたけど、あれはどうやるの?」「日産のランナーはどうしてああいうリードを取るの?」「あの時はどういうサインが出ているの?」と、日産の野球のことをチームメートに聞かれたという。

「対戦していても、気になっていたんだと思います。それだけあのチームには影響力があった。対戦相手から興味を持ってもらえるチームでした」

RECOMMEND