ロッテ戦力外からメジャー昇格寸前へ 左腕激白「一発勝負」にかけた思い

渡米時の苦労、過酷なマイナーは高校野球→大学野球→社会人→プロの感覚

――それまではほとんど知らなかったんですね?

「知らなかったんです。そこで調べてみたら、本当に左ピッチャーが少ないし、戦力外になっていた。40人枠に入っているピッチャーも年齢がけっこう高い。ただ、レンジャーズの方は左ピッチャーを補強して成功しているんですよね。そう考えると、どっちにチャンスがあるかというとDバックスだなと。そうしているうちに、自分がアメリカでやることを前提で考えていたんですね。

 あと、嫁さんは絶対にアメリカに行ったほうがいいと言ってくれました。失礼な話かもしれませんが、『アメリカの野球と日本の独立リーグとどっちがレベルが高いか、どっちが価値あるのか。普通に考えたらアメリカでしょ』と言ってくれたんです。もちろん、僕も野球以外にも、人生経験として得るものがあると思ったので。あとは押しですよね。Dバックスが色々と言ってくれたので、『やらせてください』と」

――契約した後もなかなかビザがおりず、不安もあったと思います。

「2月29日に契約書にサインして、ビザも2週間くらいで大丈夫だからと言われていたんで、その間も武蔵の方で練習させてもらっていて『ありがとうございました』って終わったんですけど……。そこからビザがおりなくて、4月2日にやっとビザが下りたんです。不安でしたよ。家族と離れるのもイヤでしたし、日本を離れるのイヤでした。最終的には通訳もついたんですけど、行く当初は通訳をつけるという契約もなかったので『絶対にやっていけへん』と思って」

――通訳が正式につくまでは約1か月あったそうですが、その間はトラブルの連続でしたか?

「練習とかは、流れが分かってきたので。チームメートともコミュニケーションは取りますけど、深く喋ることはできないから……。試合して、帰って、ご飯食べて、という感じだったので。ただ、ご飯を食べる時は、その後に通訳になる人が来てくれたりしていたんです。ただ、休みの日だけが大変でしたね。何もすることないし、ご飯も出れないし、買いに行けない。ホテルのカップヌードルを買って食べたりしてました。車がなかったので。通訳が車を持っていたんですけど、彼が来ないと動けないという状態でした」

――マイナーは過酷だと言われます。行く前は覚悟して行きましたか?

「そうですね。過酷ですけど、最初(ルーキーリーグ)は高校野球みたいな感じで。そこから大学野球、社会人と上がっていって、3Aまでいくと日本のプロの1軍みたいな。そんな感じです」

――「これはきつい」と言うのはなかったですか?

「個人での飛行機移動ですね。昇格する時は、個人で移動するので。一番最初にフェニックスから移動する時に、空港で3時間遅れだったんです。朝6時の便だったんですけど、その飛行機に乗らないと、乗り継ぎもあって試合前に間に合わなかったんです。7時か8時の便があったみたいですけど、どうせ行ったところで間に合わなかったので、3時間待ちの飛行機に乗って。シカゴについて、そこから乗り換えの飛行機も1時間遅れてて、散々だったんです。朝4、5時に起きて、時差も入れて、着いたのが夜の10時でした。それが一番しんどかったです」

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