前田智徳の引退を引き延ばした広島の愛

数多くの怪我と戦ってきたサムライ

 背番号1は真っ赤に染まるレフトスタンドへ走っていった。9月30日の巨人対広島戦。カープが4対0で勝利した試合後だった。「肉離れを起こさないように体操をしていきました」と冗談交じりで振り返った前田智徳外野手(42)は、その潤んだ目にカープファンの姿をしっかりと焼き付けていた。

 出場選手登録がなされたその日の試合前は練習中、おもむろに三塁側のエキサイトシートのファンにサインを始め、場内が一瞬どよめいた。練習中のサインなど、これまでしたことはほとんど見られなかった。まだ試合前ということもあってスタンドは半分も埋まっていなかったが、その驚嘆の騒めきはとても大きなものだった。

 その3日前の9月27日。現役生活24年の前田はファンに別れを告げることを決断し、マツダスタジアムで引退会見に臨んだ。右アキレス腱の断裂など数多くのケガと戦ってきたサムライは今年4月のヤクルト戦で、左手に死球を受けて骨折。手術し、リハビリを続けたが、完全復活はついに実現しなかった。不屈の精神で何度もカムバックしてきた男は、バットを置くことを決めた。

 引退会見で前田は「けがばかりで、たくさんの人に迷惑をかけてしまった。残念なことばかりだった。つらい野球人生でした」としんみりと語った。2000年に左アキレス腱を手術した後は「前田智徳はもう死にました」、「今プレーしているのは私の弟です」という衝撃の言葉を残した。もう、自分の理想とする打撃や走塁はできない。それは過去の自分と決別する言葉に等しかった。以来13年、葛藤の中で野球を続けてきた。

 ずっと「引き際を考えていた」という。本来の自分ではない、もう一人の自分としてプレーしていた前田はいつでも辞める覚悟をしていた。だが、代打でも、1打席でも前田が打席に立つと、スタジアムはその日一番の大歓声が沸き起こる。前田も1打席ならばと全身全霊をかけてスイングする。昨年は代打で49打数16安打、打率3割2分7厘をマークし、今年も11打数4安打で3割6分4厘。天才打者と言われた評判通り、勝負強い成績を残し続けた。

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