桑田、清原は「モノが違った」 元日ハム・田中幸雄氏が甲子園で体感した驚愕のボール

日本ハムで活躍した田中幸雄氏【写真:荒川祐史】
日本ハムで活躍した田中幸雄氏【写真:荒川祐史】

「補欠でいいから甲子園に出たい」強豪・都城高進学時の決意

「子供の頃からエースで4番」。かつてのCMソングの歌詞の通り、プロになるような選手はたいがい、子供の頃から突出した才能を発揮しているものだ。ところが、日本ハム一筋に22年間活躍して“ミスター・ファイターズ”と呼ばれ、通算2012安打、287本塁打を誇った田中幸雄氏は、中学時代は7~9番を打つ全く目立たない選手だった。1985年ドラフト会議で3位指名されるまでの軌跡を聞いた。

 その球歴を聞けば、いま大きな夢とパッとしない現実のギャップに身悶えしている球児たちも、元気が湧いてくるのではないだろうか。

 宮崎の都城市立中郷中学時代は、3年生になって遊撃のレギュラーになったが、打順は常に7~9番。身長は3年生の秋の部活動引退時も163~164センチと小柄だった。しかし、進学先に県内屈指の強豪の都城高を選択したことで、野球人生が激変する。「当時の僕には身長も実力もありませんでしたが、夢がありました。中学の頃から、どうしても甲子園に行きたいと思い始めたのです。当時甲子園に一番近いと思ったのが、都城高でした。『補欠でいいから甲子園に行きたい』という思いでした」と振り返る。

 同じ中郷中のエースが特待生で迎えられたのを横目に、田中氏は一般入試で入学。身長はグンと伸びて172センチになったが、大柄ぞろいのチームの中では全く目立たなかった。当初はグラウンドの端で球拾い、ランニング、うさぎ跳びなどつらい基礎練習の日々が続いた。それでも辞めたいとは思わなかったという。両親から都城高進学を「おまえは気が弱から、絶対続かない。県立高校へ行け」と猛反対されたのを押し切って来たため、「どんなことがあっても3年間やり通す」と覚悟を決めていたからだ。

 そして、田中氏には1つ強みがあった。「肩だけは子供の頃から強かった。いま思うと、自分の1番の特長でした。キャッチボールでも目立ったのでしょうね。1年生の秋、3年生が引退して新チームになると、監督から『ショートを守れ』と言われました」

 2年生にしてショートのレギュラーに抜擢されたが、打順は2番で送りバントやヒットエンドランが主。「ほぼほぼ、右方向にしか打球が飛びませんでした」と言うほどで、後に日本ハムの4番を張り、球界を代表するスラッガーとなる兆しは、まだ見えていなかった。ただ、「プロ入り後、当時の監督から『ボールに当てることはめちゃくちゃうまかった』と聞かされました」たという。

 1学年上に、南海(現ソフトバンク)にドラフト1位指名されることになる大型左腕・田口竜二氏らがいて、田中氏は2年生の時に春夏連続で甲子園出場を果たした。春の選抜は準決勝まで進出し、清原和博氏、桑田真澄氏を擁するPL学園に延長11回の末0-1で惜敗。夏も3回戦で再びPL学園と対戦したが、今度は1-9の大敗を喫した。

 当時の田中氏にとって同学年の“KKコンビ”は「雲の上というか、レベルが違う。間近に見ると、なおさらモノが違う。目標にしようとも思えませんでした」というほど圧倒的な存在だった。清原氏については「打球の速さにびっくりしました。三遊間にボールが来て、反射的に横っ飛びした時にはもう、レフトの前に達していました」。桑田氏については「春夏ともに試合途中からの登板でしたが、ストレートのスピードとキレ、曲がりの大きなカーブのキレの良さ、コントロールに驚いて、『これは絶対打てないや』と思いました」と明かす。

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