パ創設初年度に起きた「放棄試合」とは? 鶴岡監督が納得できなかった際どい判定

「パ・リーグ設立70周年特別企画」紙面でたどるパ・リーグ1950
「パ・リーグ設立70周年特別企画」紙面でたどるパ・リーグ1950

2リーグ制導入後初の「放棄試合」が起きる

 パ・リーグ創設70周年を記念してお送りする特別企画。日刊スポーツよりご提供いただいた紙面を参考に、全10回で当時のパ・リーグを振り返る。また、野球殿堂博物館の井上裕太学芸員より当時についての詳細な解説もいただいた。

 第3回では2020年現在でもNPBの記録として残る、両チーム合計最多得点を叩き出した試合について取り上げた。連載第4回目となった本記事では、当時のプロ野球の特徴が色濃く現れた一つの「事件」に注目する。

 1950年8月14日、県営富山球場で行われた南海対大映の試合で起こったのは2リーグ制導入後初となる「没収試合」だ。詳しくは記事の内容を見てもらいたいが、まずはその試合状況について簡単に触れておきたい。

 南海が2点をリードして迎えた9回裏、大映は代打の滝田選手の二塁打を皮切りに無死二、三塁と一打同点のチャンスを作ることに成功する。ここで打席に入ったのは代打・板倉選手。センターに大飛球を放つと、これを南海の中堅手である黒田選手が好捕したかに見えた。しかし、長谷川塁審は「セーフ」と判定し、打球は二塁打となった。

 これに対し、南海の山本一人(山本は旧姓。のち鶴岡)監督が猛抗議。長谷川塁審との「捕った、捕らない」の議論は約40分間にも及んだとのことである。この状況に対し、角田球審はプレーの再開を宣告。しかしながら、ベンチに引き揚げた南海ナインが再びグラウンドに戻ることはなかった。これを受けて、当時の野球規則によって没収試合が宣告されたのである。なお、正式試合として認められるイニング(5回)を経過していたため、個人記録は宣告時点のものを適用、試合結果は大映の勝利となった。

 記事内には両軍の指揮官と長谷川塁審のコメントも掲載されている。鶴岡監督は「黒田中堅手は完全にボールをつかんだ。私もそのプレーを見ており、審判の落球したという判定の説明が曖昧でどうにも従うことができず、我々はグラウンドを引き上げるほか道はなかった」とある。

 現在では「リクエスト」などのリプレー検証の導入により、こうした抗議の可能性は低くなったと言えるかもしれない。だた、プレーが発生した時点で大映が返した得点は1点のみ。依然としてピンチではあったものの、試合に敗れるリスクを負って抗議をおこなった山本監督にはかなりの確信があったのではないだろうか。

猛抗議の背景にあったものとは?

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