巨人・斎藤雅樹が20勝投手に変貌 “移籍1年目捕手”がかけた魔法の言葉とは?
移籍先の巨人・藤田監督から「斎藤をなんとか独り立ちさせられないか?」
かつて中日、巨人、西武で強打の捕手として活躍した現野球評論家・中尾孝義氏。1989年に中日から巨人へトレードされると、斎藤雅樹投手、桑田真澄投手(現巨人投手チーフコーチ)、槙原寛己投手の“3本柱”誕生に大きな役割を果たした。捕手目線で見た3投手の持ち味と、飛躍への鍵となったものを振り返った。
中尾氏はプロ2年目の1982年に中日の正捕手としてチームの優勝に貢献し、MVP、ベストナイン、ゴールデングラブ賞を受賞。しかし翌年以降は故障が増え、1988年には外野手転向に至った。同年オフ、巨人の西本聖、加茂川重治両投手との1対2の交換トレードが成立。「当時トレードと言えば、チームから放り出されるイメージが強くて、僕としては中日に残りたかった。星野仙一監督(当時)に『行かなきゃダメですか?』と聞きましたが、拒否すれば引退するしかないので、仕方なかった」と当初は前向きではなかった。
実は、巨人サイドから捕手として強く望まれたトレードだった。このオフ、巨人は王貞治監督(現ソフトバンク球団会長)が辞任し、藤田元司氏が6年ぶり2度目の指揮官就任。捕手陣は当時、中尾氏と同学年の33歳の山倉和博、4歳上の有田修三がいたが、いずれも衰えが目立ち、滝川高の8学年後輩にあたる村田真一はまだ1軍と2軍を往復していた。
投手陣は、同学年の江川卓氏が1987年オフに現役引退。若手有望株の斎藤は3年目の1985年に12勝を挙げたものの、翌86年から低迷し、専ら中継ぎで起用されるようになっていた。“斎藤再生”こそ、中尾氏に課せられた使命の1つだった。「移籍直後、藤田監督と中村稔投手コーチから『斎藤をなんとか独り立ちさせられないか?』と相談されました」と明かす。
中尾氏は中日捕手時代、内角球を多く使う強気なリードが持ち味だった。「斎藤は当時、凄く威力のある球を持っていましたが、内角にほとんど投げられず、9割が外角だった。右のサイドスローで縦の変化は使えないのだから、横を幅広く使えないと当然苦しくなる。実際、相手打者も外角しか狙っていませんでした」。そこで斎藤と膝を突き合わせてディスカッションを重ねた。