首位打者チラつき「試合に使わないで」 感じた打席に立つ恐怖「自分の体じゃない」
石井義人氏は“自虐”のあだ名で新天地の西武に溶け込んだ
西武、巨人などNPBで18年間プレーした石井義人氏は、横浜(現DeNA)から2002年オフに西武へトレード移籍。2011年までの9年間所属した。同僚から「天才」と称された打撃センスで、2005年には初めて首位打者のタイトル争いに絡んだが、重圧から9月に“自滅”。当時の苦しい心境などをFull-Countのインタビューで語った。
石井氏は埼玉・浦和学院高から1996年ドラフト4位で横浜に入団。2002年オフに石井氏と細見和史投手の2人が、中嶋聡捕手と富岡久貴投手との交換トレードで西武に加入した。最初のミーティングで伊原春樹監督に促されて行った自己紹介で、すぐに溶け込むことに成功した。
「自分はO脚で車を持ち上げるジャッキに似ているので“ジャッキー”と呼んでください」
自身のシルエットとタイヤ交換などに使う菱形の器具を重ねた“自虐”のあだ名はインパクト十分。「しっかりと定着しましたね。監督やコーチまで呼んでくれた。おかげすぐに馴染めました」。後にプレーする巨人でも「ジャッキー」と呼ばれ続けた。
高卒7年目で迎えた新天地では、結果を残さないといけない立場。「駄目なら終わると思って必死だった」。持ち前の打棒が開花したのは移籍3年目の2005年だった。正二塁手の高木浩之内野手が怪我の影響で出遅れると、開幕戦から7試合全てで安打を放ち、27打数13安打で打率.481と存在感を発揮した。
抜群のバットコントロールで広角に打ち分け、5月17日には打率.380に到達。チームメートからは「テニスラケットで打っている」などと言われた。リーグの打率トップを走り続け8月終了時で.335を残していた。
8月まで首位打者も…9月に急降下「自滅しました」
「タイトル争いなんてしたことなかったから、獲りたいと思い始めたら急に打てなくなって。数字を落としたくないと思うと、打席で硬くなってしまった。どつぼにハマってスランプになりました」。9月に入り打率は急降下。月間打率.128に終わるなど、シーズン打率.312で終えた。
皮肉なことに石井氏の“脅威”は同じチーム内にいた。和田一浩外野手が夏場に入ると、徐々に数字を上げて行った。打率.300で迎えた8月を同.317で終え、9月に入っても調子は変わらず最終的に同.322で首位打者を獲得。結局、石井氏はリーグ4位だった。
「規定打席に到達した段階で『試合に使わないで』と思ってしましった。そうなると打席でも四球を狙おうとして、持ち味の積極性も失われた。練習していても自分の体じゃないみたいな感じ。自滅しました」
初タイトルは逃したが2006年も同.312を残すなど勝負強い打撃を披露。2010年は代打要員としてもチームに貢献していた。しかし持病の腰痛や若手の台頭もあり、2011年は出場わずか11試合に終わった。この年の西武はレギュラーシーズン3位。主力組は10月末からのクライマックスシリーズ(CS)に備えてフェニックス・リーグで調整する中、石井氏は遠征に帯同せず、所沢での残留練習組。胸騒ぎがした。「2軍のコーチから『お前は大丈夫だよ』って言ってもらえたんですが……」。
不安は現実になった。オフに戦力外を通告された。「成績が悪かったのは1年だけ。それまではある程度は貢献できていたと思っていたから減俸かと思っていたら、スパッと切られた。頭にはきましたよね」。
現役続行を希望。当初は受けないつもりでいたトライアウトだったが、西武でお世話になった職員から「野球に対する姿勢を見せた方がいい」との助言もあって“受験”。無安打に終わったが、その日のうちに見知らぬ番号の着信が入った。
「どこかが興味を示してくれたと思ったけど、独立リーグの球団の可能性もあったから、そこまで大きく期待はしていなかった。で、出てみたら巨人でしょ。まさか、でしたよ」。伝統ある巨人からの救いの手。「嬉しかったですね」。野球を続けられる喜びが身体中を駆け回った。
(湯浅大 / Dai Yuasa)