反対された結婚、36年間つき続けた“幸せな嘘” 芽が出ずも…感じなかった「解雇になる気配」
阪急、オリックスで46年間…松本正志氏「ようやく答え合わせができてよかった」
甲子園優勝投手、ドラフト1位のプライドが生んだ「家族のドラマ」があった。今年3月31日付でオリックスを退職した松本正志氏は、1977年に行われた夏の甲子園大会で東洋大姫路高を全国制覇に導いた左腕だった。同年に阪急ブレーブスからドラフト1位指名を受けて入団。以降は阪急、オリックスで46年間のプロ野球人生を全うした。
プロでの現役生活は10年間。1987年に引退し、球団職員に転身していた。温厚な性格の松本氏は「プロ5年目くらいから打撃投手をしながら2軍の試合に行ってましたね。当時は(1軍と2軍の)球場が隣同士だったので、デーゲームは1軍の練習にバッティングピッチャーとして参加してから2軍の試合で登板していました。ナイターの時はファームの練習に出てから、1軍の試合前練習に(打撃投手で)行く感じでした」と“二刀流”だったタフネスな日々を振り返る。
隣接する球場間を「歩いて1軍から2軍に。グローブとスパイクだけを持ってね。あの頃、何も思わなかったですね。毎日、淡々と。楽しかったからね、野球。しんどいとか辛いとかは思ったことなかったですね」と懐かしむ。
節目のプロ10年目を迎える直前、球団からの呼び出しがあった。「松本くん、選手契約をしてあげるけど、今年は2軍の練習に出なくていい。1年間、打撃投手として1軍の練習に行ってください」。背番号も9年間、親しみを込めてつけていた「33」から「67」に変わった。
球団幹部との約束を守り、背番号2桁ながら1年間ずっと打撃投手を務めた。「不思議と、解雇になる気配はなかったですね。戦力外通告をされる感じがしなかった。もうすでに気持ちは切り替わっていましたから。一生懸命、仕事を頑張るだけでした」。28歳で現役を引退。まっさらなボールを持つことはなくなった。
「当時、妻に言えなかったことがあります」
ユニホームを脱ぎ、ジャージ姿に転身。翌年1988年から打撃投手と用具係を兼任した。オープン戦や公式戦で顔を合わせる同世代のメンバーは現役バリバリのプレーヤーで、自然と羨望の眼差しを送ってしまっていた。
「僕らの世代(1959年生まれ)で筆頭だったのが中日の小松辰雄、広島の川口和久たちでしたね。完全に負けたと思いました。正直、辛かったですよ。彼らの顔を見る度にね……」
グラウンド上で挨拶するのが“苦手”になった時もある。「球場で会ったら『おー! 松! 今、何やってんの? 裏方かー!』となるんです。僕は『うん、そうやー』と言うんですけど、それが辛かった。現役を辞めて3年くらいはその感情がありましたね。甲子園優勝投手で裏方はいなかったですから……」。背中を丸めて、一言ポツリとつぶやいた。「結婚して、娘も生まれるタイミングだったのでね……」。
顔を上げると、目尻にシワができた。「当時、妻に言えなかったことがあります」。自然と口角が上がる。「つい最近まで、ずっと嘘をついてました。自分のプライドを傷つけたくなかったんです。『同級生に負けて悔しい』から、裏方として職場に行くのが嫌だと。そんなこと言えないから『上司が厳しくて、辞めたい』と言い続けていました」。
実は、最初は結婚も反対されていた。「成績が伸び悩んでいたからね。妻のご両親から『仕事を紹介してあげるよ』とも言われましたけど、妻は『断って』ほしい、と。あなたは野球しかしてないのに、仕事ができなかったらみんなが恥をかくと言ってましたね。当然、そうだと思います。しっかり考えを持った、本当に良い妻です」。
もちろん、妻は松本氏の胸中を知っていた。いつも大好きな野球に専念させてくれようとする“相棒”から思いやりのある言葉に頭が上がらなかった。「こないだね、初めて嘘をついていたことを言いました」。退職を機に“告白”した。すると、妻は「え……? そうだったの?」と大きく驚いた。松本氏は「ようやく答え合わせができてよかった。ドラマ化できそうでしょ?」と少年のように笑う。
「全部、自分が考え過ぎだっただけなんやけどね……」。世の中には、幸せに導く嘘もある。
(真柴健 / Ken Mashiba)