主砲の故障で…恥ずかしかった珍代走 癪に触った敵捕手の“皮肉”「腹が立った」
伊勢孝夫氏は1969年に“ホームラン代走”&決勝弾を記録
野球評論家の伊勢孝夫氏は、近鉄での現役時代にホームラン代走&決勝弾を記録した。プロ7年目の1969年5月18日の阪急戦(西宮)での出来事だ。助っ人のジムタイル(ジム・ジェンタイル)内野手が足立光宏投手から先制アーチを放ったが、一塁手前で左足を痛めて走れない状態となり、伊勢氏が代走でホームイン。そのまま代わりに出場し、5-5の8回に勝ち越しアーチを放ったものだが、これには発奮剤があったという。
5年目(1967年)に投手から野手に転向した伊勢氏はその年、27試合、32打数3安打、打率.094に終わったが、猛練習を積み重ねて着実にステップアップしていった。6年目(1968年)はオープン戦から好調で4月6日の西鉄との開幕戦(平和台)に「6番・一塁」でスタメン出場して4打数1安打。翌4月7日の同カード(ダブルヘッダー第1試合)では「7番・一塁」で出て2回に西鉄の先発・与田順欣(よしのぶ)投手からヒットを放ち、プロ初打点を挙げた。
伊勢氏は与田投手から1967年4月25日の西鉄戦(日生)でプロ初安打もマークしており、またもメモリアルの相手になった。プロ1号は1968年9月17日の阪急戦(日生)。1-6の9回に水谷孝投手から3ランを放った。「覚えていますよ。最後の打席で水谷からね」。6年目は98試合、188打数48安打の打率.255、1本塁打、14打点。「この年から怪我以外はずっと1軍にいたと思います」。野手として手応えをつかみ始めた時期だった。
そして7年目(1969年)だ。開幕戦(4月12日西鉄戦、小倉)は途中出場だったものの、翌4月13日に平和台球場にてダブルヘッダーで行われた西鉄戦には2試合とも「5番・一塁」でスタメン出場を果たした。3番・永淵洋三外野手、4番・土井正博外野手、5番・伊勢氏のクリーンアップだった。5月には月間5本塁打をマーク。そのうちの1本が。ジムタイルのホームラン代走で出た試合での決勝弾だった。
2回にジムタイルは本塁打を放ち、一塁ベースに向かう途中で左足を痛めた。「ファーストベースのコーチャーボックスのところでひっくり返りよったんですよ。左中間の方へ打って、それを見ながら走っていて、牛が転んだみたいでした。ドスンって、砂埃が出てね」。まさかの緊急事態で代走を命じられた伊勢氏は「どっから走ればいいのかってなって(ジムタイルが)倒れたところから走りました。何とも照れくさかったですね」。
岡村捕手の「人の不幸を喜んでいる場合じゃないだろ」に発奮
ホームインする際には阪急・岡村浩二捕手から「ホームランを打った気分はどうだ」とからかわれたという。伊勢氏はそのままジムタイルに代わって出場したが「次の打席の時には(岡村捕手に)『人の不幸を喜んでいる場合じゃないだろ』みたいなことを言われました」と明かす。「ちょっとむかっ腹が立った」と言い、その試合は3打数2安打1打点。5-5の8回には阪急・米田哲也投手から左翼席に決勝本塁打を放った。これは自身初の3試合連続アーチでもあった。
今度はホームランを放ってのダイヤモンド一周。この時は岡村捕手から「何も言われなかったと思います」。それまでの“口撃”への“お返し弾”でもあったわけだ。もっとも、この時に限らず、伊勢氏はここぞの場面での打棒発揮が目立ち、実に勝負強かった。当時の三原脩監督が「伊勢大明神」と名付けたのも、そういう理由からだ。「ピンチヒッターで行く時とかは『おい大明神、行くぞ』って言われましたね。自分は勝負強いとか全然そんな意識はなかったんですけどね」。
クリーンアップを打つこともあれば、代打での登場もあったプロ7年目。この年から背番号が「9」になった伊勢氏は105試合、280打数73安打の打率.261、16本塁打、53打点と大きく飛躍した。ジムタイルは65試合、86打数22安打の打率.256、8本塁打、16打点の成績を残し、その年限りで近鉄を去ったが、伊勢氏にとっては思い出深い助っ人のひとりだ。
その後、1991年6月18日の中日-横浜戦(ナゴヤ球場)で、中日・彦野利勝外野手が延長10回にサヨナラ本塁打を放った後に右膝を痛めて倒れ、山口幸司外野手が代走でホームインしたケースがあったが、ホームラン代走&決勝弾を記録したのは伊勢氏しかいない。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)