中日監督に「蹴りを入れられた」 両軍総出の大乱闘…伊勢孝夫が感じた身の危険「ボコボコにされる」
伊勢孝夫氏は1986年限りで燕を退団、翌年から広島コーチを務めた
初の退場は闘将とともに、だった。現役時代に近鉄、ヤクルトで活躍した伊勢孝夫氏(野球評論家)は1980年に引退。1981年から1986年までヤクルトでコーチを務めた。1987年から2年間は広島コーチ。1年目は1軍外野守備走塁コーチ、2年目は1軍打撃コーチとして広島・阿南準郎監督を支えた。中日・星野仙一監督とは、乱闘騒ぎで激しいバトルを繰り広げたこともあった。「仙ちゃんは私に蹴りを入れてきたんだよね……」と振り返った。
伊勢氏は1986年限りでヤクルト打撃コーチを解任された。「来年からどうしようかと思ったけど、女房は『しばらくゆっくりしたらいいじゃないですか』って。そんな時に西武管理部長の根本(陸夫)さんから『おい、どうするんや』って電話があったんです。『まだ何も決まっていません』と言ったら『じゃあ俺に任せるか』と言ってくれたので『お任せします。どこでも行きますから』。そしたら1週間後に広島の野崎(泰一)球団代表から連絡が来たんですよ」。
根本氏は伊勢氏が近鉄に投手として入団した時の2軍バッテリーコーチ。「よく蹴られました。イボイボのスパイクじゃなくて、剣のあるスパイクでね。まぁ、ずいぶんかわいがってくれましたよ」。そのつながりが続いていた。「根本さんは広島で監督もやられましたからね(1968年~1972年)。それにあの時は(前広島監督の)古葉(竹識)さんが大洋の監督になって、広島のコーチを何人か連れていって、広島はコーチが手薄になっていたんじゃないかと思います」。
加えて広島・阿南監督は、現役時代の1968年に広島から近鉄に移籍し、1970年に引退。1971年から1973年までは近鉄コーチも務めており、伊勢氏にとって知らない仲でもなかった。「選手としては(近鉄監督が)三原(脩)さんの時に阿南さんとは一緒にやったんですよ。そういう関係もありました」。そこに根本氏が間に入り「野崎さんから『ちょっと手伝ってほしい』と言われたんです」。こうして伊勢氏の広島入りが決まったわけだ。
中日戦で乱闘勃発…星野監督とともに退場処分を受けた
初の広島生活は伊勢氏にとって、何もかもが新鮮だった。家族を東京に残し、カープの三篠寮での単身生活にはなったが、近鉄、ヤクルトとはまた違う世界で指導者として活躍した。そんな中で、5月2日の中日戦(広島)を迎えた。6回に二盗を試みた中日・川又米利内野手が広島・正田耕三内野手からみぞおち付近にタッチされたことに激高。両軍選手らが飛び出しての乱闘騒ぎとなったが、この一件で退場処分を受けたのが星野監督と伊勢氏だった。
「あれはね、正田を助けなきゃって思ったんですよ。正田は寮で僕の部屋の隣。ナイターの日は毎朝、私を起こしに来て、三篠の練習場に『行きましょう、伊勢さん、お願いします』って。こっちが2日酔いの時でもね。そういう関係だった正田がやられると思ってグラウンドに走ったら、仙ちゃんが来て、(中日打撃コーチの)島谷(金二)にヘッドロックでつかまった。振りほどかなきゃ、ボコボコにされると思ってグアーってやったら首がボキッとなったんですけどね」。
騒ぎの中で星野監督と伊勢氏が一番派手に暴れたと見られ、退場処分となった。闘将初の退場だったが、伊勢氏にとっても初の退場だった。「あの時、仙ちゃんは私に蹴りを入れてきたんだよね。だけど、あれ、当たってないんですよ。写真とかで見たら、当たっているように見えたかもしれないけどね。島谷もあの時はどっちがどうなってもいかんと思って私をつかまえたんだと思う。仙ちゃんをつかまえて止めるわけにはいかんでしょ」。
その乱闘がきっかけで星野氏とは話すようになったという。「先輩、先輩ってよく声をかけてくれた。いいところがあるんですよ。私が近鉄でコーチをやっている時、難波で球団代表の足高(圭亮)と鉄板焼き店に行ったら、隣の部屋にいた仙ちゃんが挨拶に来てくれたし、仙ちゃんが楽天監督の時にキャンプで訪ねて、たまたまいなくてスタンドで見ていたら、後でわざわざスタンドまで上がって来てくれたり……」。
そんな星野氏は楽天球団副会長だった2018年1月4日に膵臓ガンのために70歳で亡くなった。「いつも、いろいろな話をした。仙ちゃんは『先輩、また来年も来てや、待っているでぇ』って言いながら、先、死んでしまいよった。やっぱり体が悪かったんやねぇ。ずいぶんやせたな、大丈夫かなって思っていたんだけど……」。伊勢氏にとって初退場処分の思い出は、闘将・星野氏との思い出でもある。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)