休憩時間も「必ず屋上」…初芝清の壮絶な高校時代 走り込みで続々退部の新入生「妥協できない」
初芝清氏は二松学舎大付で1年秋からエースで主砲を務めた
聖地にあと一歩届かなかった。「ミスターロッテ」として愛され、現在は社会人野球「オールフロンティア」で監督を務める初芝清氏。二松学舎大付高(東京)では、甲子園出場に王手を掛けながら敗れた。「負けるわけがないって感じでした。なめてましたよね」。青春の日々を回想した。
二松学舎大付は、本格的なグラウンドと厳選10人だけが入れる寮が千葉・柏市にあり、東京・九段下の校舎からは距離がある。初芝氏が入学する直前の1982年選抜大会で準優勝を成し遂げ、入部希望者は多数いた。「学校近くの北の丸とかを走らされたりして、部員が段々辞めて少なくなっていく。柏のグラウンドへ通いの1、2年生たちも、遠いから早めに帰されるんです」。練習の場を掴む競争から激しかった。
学校では、先輩の“指導”も受けた。「授業の合間の休み時間が全部、集合なんですよ。必ず屋上。ただ、グラウンドに行く前の休み時間だけは、ご飯を食べないといけないから集合がない。寮では上級生と共同生活なので、洗濯とかはなかったですね。僕がピッチャーだったからなのかな」。
初芝氏はいきなり入寮。甲子園帯同に続く“英才教育”を施された。左腕エースの市原勝人投手(現・同校監督)が常に目の前にいた。「付きっ切りで練習しました。今も監督をされていて分かると思いますが、超マジメなんです。延々と走ったり、ストイック。だから僕も妥協できないんですよ」。
心身ともに鍛え上げられた初芝氏は、1年秋からエースで主砲を任された。2年春の東京大会では1学年上の武田一浩投手(元日本ハム、ダイエー、中日、巨人)に投げ勝った。「今でも武田さんから言われます。自分でもよく勝てたなと思います。武田さんは有名でしたから」。しかし、優勝候補の一角に挙げられながら、東京王者には立てぬまま最後の夏が訪れた。
3年夏は選抜王者・岩倉に自身のアーチで勝利…東東京大会の決勝に進出
東東京大会4回戦の対戦相手が決まった時、二松学舎大付ナインは「みんな夏休みの遊びの予約を入れましたね」。岩倉高だった。この年(1984年)の選抜大会で桑田真澄投手(現・巨人2軍監督)、清原和博内野手(元西武、巨人、オリックス)の“KKコンビ”を擁するPL学園を破って優勝。「甲子園で優勝するようなチームとやったら勝てるわけねぇだろ、もうここで終わるよ、と言ってました」。ある意味、無欲でぶつかれた。
先発した初芝氏は先頭打者本塁打を浴びるなどで途中降板、レフトに回った。打撃戦となり7-3とリードしていたが、7回に追い付かれた。しかし、直後の8回2死一塁で、初芝氏が右中間へ決勝アーチをかけた。歓喜と同時に感情が微妙に揺れ動き始めた。「それまでも甲子園に行くぞって気持ちでしたが、正直『岩倉だしな』って思いもありました。そこで勝ったもんだから、急に甲子園を意識し出したんです」。
準決勝で帝京にコールド勝ち。決勝は前年夏に圧勝した日大一だった。続く秋の東京大会では敗れたものの初芝氏は登板せず。相手投手の球筋も見極めていた。「そりゃもう甲子園でしょ、負けるわけないよってな感じです。全体でなめていましたよね。何も考えずいきました」。ただし一抹の不安もあった。降雨中止で1日順延。「影響はありました。勢いそのままに試合をした方が、というのはありました」。
夢舞台を懸けた大一番は、打線が沈黙した。初芝氏は後に相手捕手から話を聞いた。「徹底的にミーティングしたと言ってましたね。当時の僕らはミーティングのミの字もなかったですから」。
打球が右肘直撃…甲子園に届かずも意地の一発
先発した初芝氏も踏ん張っていたが、0-0の6回にアクシデントに見舞われた。打球が右肘を直撃したのだ。「もろに食らいました。そこからは肘が曲がらないので、変化球が投げられなかった」。気力を振り絞って続投も、8回2死から四球を与え、集中打を浴びて3点を許した。
最終回の途中でマウンドを譲ったが、9回の打席でチームに唯一の得点をもたらした。左翼ポール際へ本塁打。「ホームランを狙ってました。インロー。あそこのコースを打つのが僕は苦じゃなかったんです」。
話は大きく時を超えてロッテのキャンプでのこと。初芝氏は紅白戦で小宮山悟投手(現・早大監督)からインローを鮮やかに弾き返した。
“投げる精密機械”と称されたエースが「えーっ、お前あんな厳しい所をよく打てるな。打ち取れると思ってたのに。やっぱりプロのバッターって凄いな」と褒めてくれた。「僕は『いや、ここ打ちやすいいじゃん』と思ってましたけどね」。一流打者の片鱗は、高校時代に既に表現されていた。
(西村大輔 / Taisuke Nishimura)