直前で“さらわれた”ドラ1指名 50年経ても引きずる悔しさ、中日が逃した剛腕投手
1974年ドラフトで阪急が山口高志を2番クジで指名、中日は3番クジだった
中日元外野手の法元英明(ほうもと・ひであき)氏は1968年シーズン限りで現役を引退し、スカウトに転身した。2000年に退職するまで、2軍監督などを務めた時期を除き、フレッシュな人材を発掘してドラゴンズに送り込んだ。関わった選手は1975年ドラフト1位の田尾安志外野手ら41人。まさに伝説のスカウトだが、いまだに獲得を逃したことを悔しがる選手がいる。関西大出身の後輩でもあった剛腕投手だ。
担当ではなかったが、法元氏が猛烈に推して1972年のドラフト1位となった千葉・成東高の“快速球”鈴木孝政投手、1977年ドラフト2位指名後に担当となって口説き落とした石川・星稜高の“剛速球”小松辰雄投手。「孝政はスピンの効いたスパーッときれいな球。ちょっと調子が悪かったらホームランも打たれるけどね。小松はズドーンという球。重そうな球。アーム型の感じでね」と法元氏は2人を評した。
長きにわたって主力投手として活躍し、鈴木は前OB会長、小松は現OB会長と、引退後もドラゴンズを支えている。法元氏にとっては自慢の選手だが、他に「ガツーって前でボールが離れて、2人の特徴を両方兼ねている投手がいた」という。1974年の阪急ドラフト1位、松下電器・山口高志投手(現・関西大アドバイザリースタッフ)だ。
神戸市立神港高から関西大学に進み、通算最多勝利46。1季個人最多奪三振100など、関西六大学野球リーグで数々の記録を残した剛腕だ。169センチと小柄だったが、法元氏は関西大の後輩でもある山口にゾッコンで、常にNo.1評価でマークしていた。「(神戸市の)山口の家に挨拶に行こうとして新幹線に乗ったら新神戸に止まらなくて『すみません岡山まで行ってしまいました』と電話して、神戸に戻ってお父さんと話をした。ドラフトしますからってね。ああ思い出すわ」。
1974年ドラフト会議は、12球団が抽選で指名順を決める方式。1番クジが近鉄、2番クジが阪急、中日は3番クジだった。そして山口は2番クジの阪急に指名された。それこそ直前でさらわれただけに、法元氏は悔しがる。「阪急の監督が上田(利治)じゃなかったら、ウチに入っていたんだよ」。法元氏より2学年下の上田監督も関西大出身で後輩だった。抽選の結果で運がなかっただけとはいえ、“よりによって阪急”の気持ちにもなるようだ。
89歳の法元英明氏は25日の中日OB戦で総監督を務める
振り返れば、次から次へといろんな選手の名前が出てくる。89歳の法元氏は、記憶力もまた抜群だ。「僕はタイガースが好きやった。大阪にいたから当たり前やけどね。周りにドラゴンズ好きはおらへんかったなぁ。戦後、親父に連れられて西宮球場とか甲子園に行った時、中日は中部日本というチーム名やった。それが名古屋ドラゴンズになったりして……。その時は何か弱いチームやったけどね。その球団にお世話になって終生過ごしてきたわけやからなぁ」。
ドラゴンズ初のOB戦「DRAGONS CLASSIC LEGEND GAME2024」(7月25日、バンテリンドーム)で総監督を務めるなど、中日のレジェンド中のレジェンドである法元氏は、現在の立浪和義監督率いる中日の動向も気にかけている。「石川(昂弥内野手)とか、もっと成績を出さなきゃアカンのやけど、なかなかかたまらへんねぇ。根尾(昂投手)もやらさないといかん。本人はやる気があるんだからね」と若手の完全覚醒の日を楽しみにしている。
伝説のスカウトが最後に関わった1997年ドラフト3位、NTT北陸の正津英志投手は現在、中日スカウト。「正津は、だいぶいい選手を入れているよ。梅津(晃大投手、2018年ドラフト2位)とかもそうだしね」。スカウト・法元精神の伝承については「してへん、してへん。あいつもなかなか電話してこんよ」と否定したが、法元スカウトと接した人は必ず何かを感じているはずだ。
関西大を中退して、中日入りしたのは1956年。退団してからも20年以上が経過したが、ドラゴンズはずーっと“身内”みたいなものだろう。今、法元氏は名古屋市名東区で活動する軟式少年野球チーム「名東ウイングス」の代表も務めている。小松辰雄氏の孫も在籍し、頑張っているそうだ。「僕はそんなに出ていくことはないんだけどね。小学校6年生までいて、楽しみな選手もいるんだよ」。未来の中日戦士もひょっとして……。伝説のスカウトは眼力もまだまだ健在だ。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)