公衆の面前で監督が激怒「チャラチャラしやがって」 田村勤氏の決断…先輩との“決別”

元阪神・田村勤氏【写真:山口真司】
元阪神・田村勤氏【写真:山口真司】

横手投げに転向した田村勤氏に…指揮官から突然の呼び出し

 元阪神クローザーの左腕・田村勤氏は駒沢大時代までオーバースローだったが、社会人野球・本田技研に進んでからサイドスローになった。「嫌でしたよ。でも(本田技研の)田代(克業)監督に『サイドにしないと使わない』って言われたので……」。これが野球人生の流れを大きく変えた。再び、目標のプロ入りに向かって走り出した。だが、ここでの道のりも平坦ではなかった。東武東上線成増駅構内の喫茶店ではスペシャルな“喝”も入れられたという。

 駒沢大ではリーグ戦通算3勝に終わった田村氏は恩師の駒大・太田誠監督の勧めで1988年、本田技研入りした。「大学ではやらされた練習しかしていないだろう。社会人はな、思ったことをやったらいいんだ」と田代監督に優しい声も掛けられての再スタート。指揮官には「あわよくばプロに行きたいと思っています」との夢も打ち明けての出直しだったが、結果は大学時代とあまり変わらなかった。「社会人でもノックアウトを食らったりとか……」。

 そんな社会人1年目の秋、サイドスローへの転向を命じられた。「田代さんがコーチとも相談して、そうした方がいいということでね。『お前はもう横にしろ、そうでなければもう使わん』とまで言われました」。ショックだった。そして、少年時代に何度も聞いた父・甲子夫さんの言葉が、自然とよみがえった。「親父には“江川になれ、江夏になれ”って言われていましたからね。あの頃は、なんで“江”ばかりつく人なんだろう、なんて思ったこともありましたけど……」。

 右の剛腕・江川卓投手(元巨人)と阪神などで大活躍した球界を代表する左腕の江夏豊氏。田村氏は父の言葉通り、この2人の本格派投手を大目標にしてきた。それだけに「サイドになるのは嫌でしたよ。無茶苦茶、抵抗はありました。その晩は寝られなかったです」。だが“サイドにしなければ使わない”と言われた以上、了承するしかなかった。「やらされる練習ではなく“自由にやれ”じゃなかったっけって思いながらね」。

 半強制的だったとはいえ、田村氏はサイドスローにして練習を重ねた。やると決めたら気持ちも切り替わった。「何となく結果が出たり、出なかったりでしたけどね」。そんな時に田代監督から呼び出されたという。「“おい、田村、飯でも食いに行くか”くらいの雰囲気で、東武東上線の成増駅の構内の喫茶店に呼ばれたんです。日曜日だったか、休みの日でした。監督は休みの日に飯に連れて行ってくれるんやって僕は喜び勇んで行ったんですよ」。

 ところが……。「行ったら、監督は喫茶店のど真ん中に座っていて『おい、早く座れ!』って。それから、周りのお客さんもびっくりするくらいにむっちゃ、でっかい声で『お前、プロに行きたいとかぬかしとって、何や今の練習は! こら! 他のピッチャーとぺちゃくちゃ、ぺちゃくちゃ、しゃべりながらママゴトみたいな練習しやがって!』って。遊びに来たつもりだった僕はもう固まってしまいました」。いきなり超ド級のカミナリを落とされたのだ。

指揮官の“喝”受け練習に専心…ひたすら走り込んだ

「サイドにしても中途半端で、監督は見るに見かねたんだと思います。『チャラチャラチャラチャラしやがって。明日からは他のピッチャーとは一緒に走るな! 別のところでひとりで走れ! 走った数だけ石を置くか、正の字を書くか、しろ! ちゃんとこれだけ走るというのを決めて、走り終わってから(帰りの)バスに乗れ! それまでバスも(出発を)待っててやるから』と言われました。ホントにデカい声で。他のお客さんにどう思われようと気にもしていない感じでしたね」。

 その日の夜、田村氏はまた寝れなかったという。「また、やらされる練習かよって思ってね。でも、自分のふがいなさもわかっていましたからね。“じゃあ、自分はこれまで自分自身をそこまで追い込んで練習してきたか”って考えた時に“やってねぇな”って思った。サイドにしたのもそうだけど、もう監督の言うことを聞くしかないって思いました」。もはや、それしか道はないと割り切った。

 翌日から田村氏は他の投手陣とは別行動をとった。「いつもピッチャーは球場のレフトの方で走っていたんですけど、僕はひとりだけライトの方で走りました。そしたら2日もしないうちに先輩から『何か自分だけ違うことをやって大丈夫かお前』みたいに威圧されるわけですよ。『ひとりだけ、いい子になろうとしているんじゃないの』ぐらいのことも言われました。『監督がそうやって走れというのでそうするしかないんです』と言いましたけどね」。

 もうやるしかない。それがすべてだった。「監督にも『監督に言われたっていえばええから』と言われていたのでね。それでずーっと、ずーっと走っていました。昼から練習ですけど、夕方までピッチング以外はずーっとひとりで走っていました。1日50本、60本以上は走る。正の字を書いてね」。田代監督との会話は成増の喫茶店以来、なかったという。「口もきいてくれませんでした。ずっと様子を見ている感じでね」。

 その冷たい“関係”が解消されたのは走り始めてからかなりの日数を重ねてからだった。「3か月後くらいだったと思います。ひたすら走っていたら、ようやく監督がライトのところまで来てくれて『おう、やっとるなぁ』ってひと言。もうめっちゃ、うれしかった。監督に認められたって思って、そこからまた加速して走りましたよ」。“やらされた練習”だったが、続けているうちに「何かこれをしないと終われないという気持ちにもなってきた」という。

 そこから徐々に田村氏の野球人生は好転していく。プロ入りの夢もついにかなう時がくるわけだが、これは田代監督抜きでは考えられない。「田代さんはPL学園出身の方なんですけど、ホント、お世話になりましたね」。成増駅構内の喫茶店で、それこそ公衆の面前で怒声を浴びせられたのは強烈だったが、あの日がなければ、その後もなかったのかもしれないのだから……。田村氏にとって、いつまでも記憶に残る過激シーンだ。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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