巨人戦の実況で“放送事故”「舐めていました」 頭が真っ白に…鼻をへし折られた大失態
上重聡氏は野球選手の道を断念…取材のプロを目指し日本テレビへ入社
PL学園のエースとして甲子園でも活躍したフリーアナウンサーの上重聡氏は、松坂大輔の凄さを目の当たりにしたことで高卒でのプロ入りを思いとどまり、立大へ進学。4年後の逆指名でのプロ入りを目指すも、3年時に右肘の怪我もあり断念した。野球を続けることは諦めたが、取材のプロを目指し、日本テレビに就職。初めての野球実況では失敗の連続で「鼻をへし折られました」と苦笑いで振り返った。
PL学園ではエースとして活躍。強豪校の背番号1は当然ながら注目される存在で「プロに行って活躍するのが一つの目標」だったが「松坂に出会ってしまった」と自身の“力量”を痛感。「今プロに行ったとしても2、3年で終わる。活躍できないだろう」と判断し、立大進学を決めた。
大学で4年間頑張って逆指名でプロにいける実力をつける。いけなかったら野球をやめる。そう決めて臨んだ大学野球だったが、2年春までは思うようなパフォーマンスを出せず、2年秋からようやく登板機会が増え始めるも、3年秋に右肘を痛めた。「もうプロは厳しいな。今でいうトミー・ジョン手術をしないといけないくらいでした」。
選んだ道はマスコミ。甲子園での経験などを通じて、印象深い質問や話しやすい取材者、心に残るフレーズを発信するアナウンサーの存在は心に残っていた。そこで自分も取材のプロになって自身の経験を生かして取材する側に立ってみたいと思うように。「もしかしたら松坂を取材できるかも……」。ダメ元で受けた日本テレビから内定をもらった。
研修を経て、さっそく自分の“武器”を生かす現場にいった。巨人の2軍戦の実況だ。解説者はおらず、話すのは自分だけ。「野球中継は毎日のように見ていた。正直、舐めていました。野球なんだからできるだろう、と」。
いざ試合が始まると、想像とはまったく違った。「プレーが動いているときはしゃべられるんですけど、野球中継って動いていないときにどんなことを言うか、なんです。イニング間とか、まったく言葉がでてこない。隣で指導係の先輩がずっと“しゃべれ、しゃべれ”というジェスチャーをしていたのですが『はい』というも言葉でなかったです」。
1998年に甲子園で活躍「生涯の友を得た場所」
頭の中が真っ白な状態。ふと先輩からの「困ったら天気をいえ」という助言を思い出し、「雨が降ってきました」。しかし「外はピーカンの天気。動揺して額から湧き出た汗が目の前をつたって落ちたのを雨と思ってしまったんです。隣で先輩は『雨なんて降っていない』と必死の形相で……アナウンサーという仕事を舐めていました。鼻をへし折られました。得意種目の野球なのに全然しゃべれず……放送事故レベルの無声でした」と振り返った。
ほろ苦い経験も経て、局を代表するアナウンサーの一人として成長。日米野球では実況を担当し、解説に松坂大輔という“共演”も実現した。2006年の第1回ワールド・ベースボール・クラシックでは日本テレビが決勝戦を中継する関係で、優勝のシャンパンファイトの会場にも入った。「松坂や藤川球児、和田毅らがいて、立場は違うけど、同級生と世界一の瞬間を共有できたのはうれしかった」と語った。
甲子園は「生涯の友を得た場所」だという。「甲子園からの“延長戦”はまだ続いていると思っています。それぞれの立場は違うけど、みんなが頑張っている。勝ち負けもなく、頑張っている姿を見せ合っていると思っています」。松坂世代の絆は固い。
中心にいるのは紛れもなく松坂大輔だ。「彼は太陽なんです。そこに小さい惑星の我々がずっと周りを回っている。まぶしくて、近づきたいけど、熱いんです。でも太陽がいるから我々もずっと回っていられる。そういう構図はずっと松坂世代は変わらないのかな。松坂もずっと変わらないでいてくれる。仲間を大切にしてくれる。出会えたことに感謝です」。
上重氏は3月いっぱいで日本テレビを退社し、フリーアナウンサーとして新たなスタートを切った。「いろんなことに挑戦したいと思っています。そのなかで野球関連の仕事では、どういう形であれ恩返ししていきたいと思います。野球をする子供が少なくなってきているので、松坂や同世代の仲間とそういう活動をしたい。我々は野球に育ててもらった意識がすごく強いので」。甲子園での伝説の激闘から26年。色褪せることのない思い出とともに、自身ならではの立場から野球の魅力発信に尽力していく。
(湯浅大 / Dai Yuasa)