笑いながら通達された戦力外 元ドラ1の告白「今も許せない」 忘れられぬ屈辱の”光景”
横浜で活躍した古木克明氏はトレードを志願し続けていた
1998年ドラフトで横浜(現DeNA)に1位指名で入団した古木克明氏は、5年目の2003年に22本塁打を放つも出場機会には恵まれず、契約更改の場でトレードを志願し続けた。2007年オフにオリックスへのトレードが実現したが、出場機会はさらに減り2009年オフに戦力外通告。当時の球団側の態度には「今でも許せない」と語気を強めた。
2002年に34試合の出場で9本塁打を放ち、スラッガーとしての片鱗を見せた。2003年には22本塁打を放った古木氏だったが、2004年は94試合の出場にとどまり、打席数は前年より200近く減った。
「プロで1番状態がよかったのは2002年でしたが、2004年はその次によかった。頑張っているのになんで出してくれないんだ。数字はいい(打率.290)のに、なんで使ってくれないんだと」
徐々に積もる不満。パフォーマンスは決して悪くはないが、増えない出場機会。「(状態がよくて)チャンスがあるうちに出してほしかったので、トレードを志願しました。2005年のオフから契約更改の席で言い続けていました。環境を変えたかったんです」。
迎えた2007年オフ、チームの同世代の仲間と集まっているところに球団から電話が入った。「明日、球団事務所に来てくれ」。すぐにトレードだと直感した。翌日、球団へ向かう車中にオリックスにいる同い年の大西宏明からの着信があった。「お前とトレードや」「今から球団にいくところや。先に言うな」。
「トレードになることは分かっていました。あとはどこに行くのかな、というなかで、思わぬ形で知ってしまいました。実際に球団から通達されたときに笑ってしまいました」
念願の移籍果たすも「どうやって試合に出るの?」
念願のトレード移籍を果たしたが、なかなか調子が上がらない。当時のチームにはカブレラ、ローズ、濱中治、坂口智隆、村松有人らが野手の中心として活躍。「空いている枠が少なくて、どうやって試合に出るの? という感じでした」。
2008年は21試合の出場で打率.222に終わると、2009年はわずか9試合で打率.231。豊田大谷高時代に甲子園を沸かせたスラッガーも、新天地では2年間で本塁打ゼロに終わった。2009年オフに室内練習場で体を動かしていると「明日、スーツで事務所に来てくれ」と声をかけられた。戦力外になると分かっていた。
呼ばれた席では、今シーズンの振り返りなどをずっと聞かされたという。「もうクビだとわかっているから、早く言いたいことを言ってください、という感じでした」。しばらく話を聞いたのち、最後に球団の立場ある人間から「君と契約する気はないから」。あっさりと通達された。
「笑いながら言われたんです。それは今でも許せない。人の人生を何だと思っているのか」。もうすぐ15年経つが、今でも鮮明に焼き付いている屈辱の光景。NPB選手としての悲しいラストだった。
(湯浅大 / Dai Yuasa)