苦悩のドラ1「野球を見たくない」 怪我人リストで1位…避けた昼食「選択肢なかった」

元阪神・的場寛一氏【写真:山口真司】
元阪神・的場寛一氏【写真:山口真司】

的場寛一氏は2年目オフに左膝の靭帯移植手術…背番号は2から99に変更

 2003年、星野仙一監督率いる阪神は1985年以来、18年ぶりのリーグ優勝を成し遂げた。キャッチフレーズの「ネバー・ネバー・ネバー・サレンダー」、闘将の名文句である「勝ちたいんや」……。大フィーバーが巻き起こった中、1999年ドラフト1位(逆指名)の的場寛一氏は一度も1軍に呼ばれなかった。「2軍では僕の方が打っているのに他の選手が上がったり……。なんでって思う時もありました」。悔しさしかなかった。

 的場氏は2年目の2001年オフに左膝の靱帯移植手術を受けた。「編成会議で星野さんが僕の状態を聞いて『クビにせい!』と言ったそうですけど、(2軍監督の)岡田(彰布)さんが『いや使えます』と言って必死に止めてくれたと聞きました」。背番号は「2」から「99」に変わって残留できたが、3年目の2002年は手術後のリハビリ期間。「キャンプも行っていません」。巻き返したくても巻き返せない現実はつらいものだった。

「あの年は野球を見たくなかった。1軍のナイターも、ファームの試合も見たくなかった。俺って何しているんやろって思いました。(2軍本拠地の)鳴尾浜に怪我人リストがあってホワイトボードに書かれるんですよ。名前と怪我の部位と今の状態とかを。治って合流したら名前が消えていくんですけど“的場寛壱”(大学3年頃から2004年まで登録名は「的場寛壱」)だけいつもトップ。ザ・ベストテンの1位みたいな感じで『全然消えへんなぁ』『トレーナールームの主やな』とかいじられて……」

 気持ちは滅入るばかりだった。「元気な人が練習に行っている時に、こっそりリハビリするとか、なるべく誰とも会わないようにしていました。昼飯も誰もいなくなってから食べに行ったり……。肩身の狭い思いというか、もちろん、自分が悪いんですけどね」。そんな気持ちを誰にも打ち明けなかったし、相談もしなかったという。「親にも言いませんでした。今、思えば、もっと分散してもよかったかもしれませんが、その時は“聞いて下さい”は選択肢になかったです」。

阪神は2003年にリーグVも的場氏は出番なし…抱いた思い「オレを使ってくれよ」

 そんな時期を経て4年目の2003年になった。阪神は大補強を敢行。FA権を行使した広島・金本知憲外野手が加入し、的場氏が幼少の頃に「お兄ちゃん」と呼んで慕っていたボーイズリーグ「兵庫尼崎」の先輩である伊良部秀輝投手も阪神の一員になった。リハビリを終えた的場氏は左膝の負担を考えて内野手から外野手に転向したが、今度こそ戦力になろうと意気込んだ。だが、現実は厳しかった。1軍から声がかからなかった。

「よく言われたのは『去年(2002年)1年何もしていないから、とりあえず1年できる体力を作ろう』ってことでした。ファームでは試合に出ていたんですよ。ずっとセンターで。2軍は木戸(克彦)さんが監督で、よく使ってくれたんですよ。膝の状態も手術する前よりは明らかによくなっていた。だけど、あの年は1軍のレベルも高かったですからね。チャンスがあれば上に行きたいと思って、やっていたんですけど……」。

 2軍で頑張っても、1軍昇格の話はなかった。「“なんでアイツが1軍で俺が2軍なんや、俺を使ってくれよ”なんて思ったこともありました。当時は何くそって思ってやっていましたけどね」。2003年に阪神2軍はウエスタン・リーグを制し、10月11日の日本ハムとのファーム選手権(長野)も制した。的場氏はその試合も「1番・中堅」で出場したが、阪神フィーバーも、歓喜の1軍優勝にも関わることはなかった。

 星野監督は2003年限りで勇退し、阪神を指揮したのは2シーズンだったが、的場氏はその2年間とも1軍出場なしに終わった。2001年オフに「クビにせい! と言っていた」と聞いた闘将を見返せなかった。どうにもうまくいかなかった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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