グラブ投げつけ大怪我「アホやったなぁ」 阪神ドラ1の悪夢…6年で終わったプロ人生

元阪神・的場寛一氏【写真:山口真司】
元阪神・的場寛一氏【写真:山口真司】

“岡田第1次政権”1年目に的場寛一氏は右肩亜脱臼…1軍昇格は9月にずれ込んだ

 元阪神の的場寛一氏はプロ6年目の2005年に戦力外通告を受けた。2004年シーズンから監督に就任した岡田彰布氏に期待され、春季キャンプは2年連続で1軍スタートだったが、いずれもオープン戦途中の怪我で離脱した。最後の年は好機に打てなかった自らに腹を立てて、試合後にグラブを投げつけて右肩を痛めるアクシデントでチャンスを失った。「今思うと短気は損気、アホやったなぁと思います」と話した。

 2003年に阪神を優勝に導いた星野仙一監督が、そのシーズン限りで勇退。2004年から岡田彰布氏が監督に就任した。的場氏にとってはプロでの恩師だ。「岡田さんは2軍監督の時から僕を買ってくれた。キャンプも1軍に呼んでくれました」。2001年オフに靱帯の移植手術を受けた左膝の状態も「何か体になじんできて、いよいよプロとして勝負できるなって時期でした」という。これまで怪我に泣かされてきた分を取り返すつもりで、岡田阪神での飛躍を誓っていた。

 実際、キャンプでも好調な姿を見せた。紅白戦でも結果を出した。一躍、レギュラー候補とも言われた。だが、またも故障の悪夢が……。2月末のオープン戦で右肩を痛めた。「僕が一塁ランナーで(次打者が)ライトへのハーフライナー。その時、雨上がりだったんですよねぇ。一塁に戻る時に足を滑らせて、手をついたときに、肩が抜けるというか、そのままうずくまって、交代でした」。右肩の亜脱臼だった。これで開幕1軍がアウトになってしまった。

 この怪我が長引いた。6月には2軍戦に出場し、バッティングは絶好調だったが「肩はまだ完全に治っていませんでした。でも目茶苦茶、打っていたからですかね、代打で1軍という話があったんです。(2軍監督の)木戸(克彦)さんのところに岡田さんから話があったそうです。でも僕は、そんな打つ専門なんておこがましいと思って『ちゃんと肩が治ってから岡田さんに恩返しできるようになりたいです』と言いました。それで、その話は流れたんですけどね」。

 1軍復帰は9月までずれこんだ。「ファーストだったら行けるということで呼ばれたんですけど、その時はファームでも打撃が絶不調で、木戸さんも『この状態じゃ無理やで』みたいな感じで言っていたし、僕も確かにって思ったけど、岡田さんが呼んでくれたし、上で変わるかもしれんということで行ったんですけど、案の定駄目でした」。

2005年はベンチでグラブ投げつけ…右肩関節唇を損傷した

 9月1日、2日の中日戦(ナゴヤドーム)に「7番・一塁」でスタメン出場したが、2打数無安打と3打数無安打。2試合目は中日・小笠原孝投手と久本祐一投手の前に3打席3三振だった。「2軍では普通に打っていたピッチャーを打たれへん状況。そのままファームとなりました」。2004年はこの2試合の出場だけ。「(調子が)悪くても打つのが長生きする選手。僕にはそこまでの力がなかったってことですね」と言うが、またしても“流れ”が悪すぎた。

 プロ6年目の2005年も出だしはよかった。右肩も治って、1軍キャンプスタート。「絶好調でした」というように2月26日のオリックスとのオープン戦(安芸)では本塁打も放つなど、アピールを続けた。「ずっとヒットも打っていて、外野(守備走塁)コーチの吉竹(春樹)さんから『岡田さんも開幕ライトで考えているらしいから準備しとけよ』って言われていた」。今度こそのはずだったが……。

 3月9日の楽天とのオープン戦(甲子園)、的場氏は「9番・左翼」で出場して、3打数無安打1三振に終わった。「9回に(楽天の)山崎武司さんのレフト線の当たりを僕が処理して、セカンドで刺して試合終了だったんですけど、打つ方ではチャンスで打てなくて、こんなんでは開幕に入られへんし、情けないわって思って、試合後のベンチでグラブを投げつけたら、肩が外れるというしょうもない怪我をしてしまったんです。それで終わりました」。

 病院で検査の結果「右肩関節唇損傷」と診断された。表向きは最終回のレフトからセカンドへの送球の際に痛めたと発表されたが、実際は試合後に自らが招いたアクシデントだった。「グラブを投げてバチが当たりました。右肩もホントは2004年の亜脱臼で手術しないといけなかったのに、リハビリで頑張っていたんですけどね。グラブを投げたことで、この子(右肩)も堪忍袋の緒が切れたというか……。それまでは元気だったのに……」。

TVで見た2005年の阪神リーグ優勝…オフに受けた戦力外通告

 またリハビリ生活となった。手術はしなかった。「どっかで僕、これで手術したら、おこがましいなぁってのもあったし、これで手術させてください、なんて言えないなっていうのがありましたね」。その後、2軍戦には出場したが、肩の状態は元に戻らず、春先の勢いはもうなかった。「もう今年で終わりと思っていました。夏以降、ファームでも今まで僕が出ていたところが若いヤツになったりしていましたし……」。そして戦力外通告を受けた。「やっぱりかぁでした」。

 2005年、岡田阪神はセ・リーグを制覇した。9月29日の巨人戦(甲子園)で決まった。「家で見ていました。ホントだったらあそこにいたはずやのになぁって思いながらね。リモコンで番組を変えたかったけど、目をそらしちゃいかん、よくしてくれた岡田監督をはじめ、コーチの人たち、一緒にやってきたメンバーが喜んでいる顔を見なきゃいかんと思った。内臓をナイフでえぐられるような気持ちでしたけどね」。

 ドラフト1位入団の栄光から、わずか6年のプロ生活。1軍で輝く時期はなく、結局、怪我から怪我を渡り歩き続ける形になったが、“グラブ投げつけ”による最後の怪我は悔いが残るところだろう。タラ、レバは禁物の世界ながら、それがなければ、また違った結果が出ていた可能性もあったのだから……。「その時は若かったし、すぐ頭に血が上ってカーッとなるタイプだったのでねぇ。アホやったなぁって思います」。

 プロの舞台で、人気球団・阪神で、思う存分躍動する走攻守3拍子揃った姿を見せたくても、見せられなかった“怪我地獄”。これも的場氏のプロ野球人生と言ってしまえば、それまでだが、何とももったいなかった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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