メジャーで願い続けた“日本行き” 巨人で2軍暮らしも…折れずに腕を振れた理由

巨人時代のマイケル中村氏【写真提供:産経新聞社】
巨人時代のマイケル中村氏【写真提供:産経新聞社】

父が日本人のマイケル中村氏「夢はNPBでプレーすること」

 日本ハム、巨人などでプレーしたマイケル中村氏は幼少期を豪州で過ごし、南アラバマ大学を経て1997年にツインズと入団。メジャーにも昇格したが、プレーの地として選んだのは日本。「メジャーに昇格した時はさらに、日本でプレーしたいという気持ちは強くなっていたんです」。NPBでのプレーは長年の夢でもあった。

 父は日本人、母はオーストラリア人で、3歳まで日本に住んでいた。父の影響もあり、日本の野球を見て育ったという。「日本でプレーすることは、僕の長年の夢だったんです。ただ、オーストラリアに住んでいたので、NPBを目指すルートは自分で切り開く必要がありました。アメリカの大学に入った時もツインズと契約した時も、夢はNPBでプレーすることでした」。

 ツインズと契約してから6年目の2003年に、メジャーに初昇格。12試合に登板し、翌年はブルージェイズで19試合に登板した。「周りの選手がメジャーリーガーになりたいと思う中で、自分だけはいつか日本でプレーしたいという夢を持ち続けていました」。せっかく掴んだメジャーリーガーの地位。そのままMLBで活躍の場を求め続けてもおかしくなかったはずだが、2004年オフにはロッテと日本ハムのテストを受けてまで、日本でプレーすることを希望した。

 幼い頃からの夢であったNPB。日本ハム時代には最多セーブの個人タイトルや日本一を経験するも、巨人での3年目には2軍で42試合で防御率1.55と好投したが、1軍登板は7試合に終わって戦力外となった。2軍であっても黙々と好投を続けることができたのは、NPBが夢の舞台だったからなのだろう。

 日本出身の父からいろいろと話を聞いていたため、日本に来てからも驚いたことはほとんどなかった。「気持ちの面では常に準備ができていたように思う。どういう野球をするのか、どんな生活をするのか、ということも、ある程度事前に知識はありました。このあたりは、父のおかげですね」。

改善した課題「クイックへの意識は強くなった」

 それでも日米の野球には異なる面がたくさんある。「やっぱりアメリカの野球はパワー重視。自分がアメリカにいた頃は、ホームランや長打力が重視されていた。日本の野球は走塁だったり、野球のより細かな部分が重視されていて、アメリカより緻密だと思う」。

 違いは当然、日本に来る前から熟知していたが、それでも日本に来た当初は面食らった部分もあったそうだ。「日本に来た当初は、牽制やクイック(スライドステップ)が得意ではなかったんです。日本では隙を見せればランナーがいつでも走ってくる。そのため、クイックへの意識は強くなりましたね」。

「どうやったら球威を殺さずに、できるだけ速くボールを捕手に届けることができるか。何を変えたらクイックがより速くなるか。そういう意識を常に持ち続けて改善を重ねていたので、結果的には大きな弱点にならなくて済んだとは思います」

 ただ、中村氏は日本での登板試合の大半がクローザーとしてのものだった。最終回、攻撃側としては盗塁失敗で走者を失うことは大きな痛手であり、リスクは大きい。それでも走ってくる脅威を感じていたのだろうか。

「9回でも油断はできなかったですね。まず気をつけていたことは、先頭打者を出塁させないこと。一塁に走者を出してしまうと、バントはもちろん状況によっては盗塁も気にしなければならない。仮に4番打者が先頭だったとしても、四球などで出塁を許せば代走が出てきます。チームでも走塁が得意な走者が一塁にいることになる。必然的に、先頭を出さないことが最重要になりました」

 NPBが長年の夢だったからこそ、苦手な課題に向き合い改善を重ね、栄光の後の挫折にも心折れず、自分の役割を果たすことに集中できたのだろう。8月にはメルボルン地域のU-16チームの投手コーチとして来日し、NPBの試合を観戦した。「日本の野球や当時の暮らしを、いつも懐かしく思っています。いつか是非、日本に戻ってピッチングコーチをしてみたいですね」と思いも明かした。「NPBが夢だった」と語るとき、まなざしは一層力強さを増していた。

(伊村弘真 / Hiromasa Imura)

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