転校で直面した“問題”「辞めていた可能性あった」 元阪神右腕を悩ませた暗黙のルール

元阪神・中田良弘氏【写真:山口真司】
元阪神・中田良弘氏【写真:山口真司】

阪神に1980年ドラ1入団・中田良弘氏が振り返る少年時代

 映画「サタデー・ナイト・フィーバー」の主演俳優ジョン・トラボルタ似の甘いマスク。1985年に12勝をマークした阪神V戦士右腕が中田良弘氏(野球評論家)だ。日産自動車からドラフト1位でタイガースの一員となり、プロ1年目の1981年7月21日から5年目の1985年8月11日まで18連勝をマークしたことでも知られるが、その野球人生は決して順風満帆ではなかった。中学時代は丸刈りが嫌で野球を辞めかけたという。

 右膝痛、右肩痛、右腕血行傷害、右肘痛。中田氏の野球人生は怪我との闘いの連続だった。「いつ辞めていてもおかしくなかったと思う」と振り返るが、そもそも「中学の時に辞めていた可能性もあった」と明かすのが“ヘアスタイル問題”だ。「中学1年の時に転校したんですけど、野球部は坊主頭にしなければいけなかったので、それが嫌で最初は入部していなかったんです」。それまで通っていた中学では野球部に在籍していたが、髪形も自由だったという。

 1959年4月8日生まれ、横浜市出身の中田氏は「小学校3年か4年くらいですかね、野球を始めたのは……。といっても少年野球のチームとかはなかったので、1人で壁当てとか素振りとかランニングをやっていたんですけどね」という。野球漫画「巨人の星」の主人公・星飛雄馬に憧れ「あの漫画の中であったので、バスや電車の中ではつま先立ちしたりもしていましたね」。肩も強く、球はその頃から同級生たちよりも速かったそうだ。

「小学校5年の時にクラス対抗で試合することになったんですけど『中田がピッチャーするならやらない』って。『球が速いから』って。5年対6年でやろうとなった時も『お前は後ろから投げろ』って俺だけ言われたのを覚えていますね。今、子どもたちの野球を指導していますけど、あの頃の自分を見てみたいですね。そうやって言われていた自分って、どうだったのかなってね」と中田氏は笑いながら話す。それほど小学校の時から投手として非凡なものを見せていたわけだ。

中学1年で転校…野球部の丸刈りに難色「どうしても嫌」

 制球力は壁当てで鍛えたという。「民家のコンクリートの塀とか壁に投げていました。いい角度があって、そこにぶつけたら、ちょうどノーバンで返ってくるんですよ。違うところに投げたら、いいところに返ってこない。それが絶対嫌だったんでね」。これには苦情もあったそうだ。「その家のおばちゃんが出てきて『ボク、塀が壊れるからやめて』って。で、違う場所を探して投げていたら、また『壁が崩れるから』とかね。そういうのをずっとやっていましたね」。

 運動神経は抜群。「水泳では横浜市の大会でクロールが3位。スイミングスクールとかは行かずに、夏休みにちょっと泳いでいただけだったんですけどね。冬はサッカーも。でも野球の方が好きだったんですよね」。中学では迷わず軟式野球部入りした。だが「1年の夏過ぎくらいに転校することになったんです」。同じ横浜市内の中学だったが、そこで引っかかったのが「野球部は坊主頭にしなければいけない」ことだった。

「どうしてもそれが嫌で、転校してすぐは入りませんでした。数学の先生が監督だったかなぁ。『前の中学では野球をやっていたそうだが、入らないのか』って言われても『はい』って答えて……」。しかし、中学2年になるくらいに意を決して入部したという。「やっぱり野球をやりたいなぁって思ったんですよ。坊主頭にもしました」。最終的には「野球が好き」という気持ちが勝ったが、かなり悩んだそうだ。「何か月かブランクもありましたしね」。

 1974年、中学3年の夏にエースとして神奈川県大会に出場した。「2、3回勝って、その時にいろんな高校の監督が見に来ていたようです」。球の速い投手として注目を集めた中田氏は、前年の1973年選抜大会で永川英植投手(元ヤクルト)を擁して初出場初優勝を飾った横浜高校への進学を選択するが、それも中学で丸刈りにならなければ実現しなかったこと。「あの時、野球部に入っていなかったらどうなっていたでしょうね」と当時を思い出しながらしみじみと話した。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

RECOMMEND

KEYWORD

CATEGORY