真夜中に聞こえた虎主砲の“唸り声” ドラ1衝撃のキャンプ…萎縮した同部屋の大エース
中田良弘氏は1年目に米キャンプ体験…掛布氏の練習に驚嘆
違いに驚愕した。1980年ドラフト1位で阪神に入団した中田良弘氏(野球評論家)。1年目の春季キャンプは米アリゾナ州テンピで行われた。「自分にとって初めての海外でした」。即戦力右腕として社会人野球・日産自動車から入団。同室だったエース・小林繁投手、ミスタータイガース・掛布雅之内野手らの“生の姿”にレベルの高さを思い知らされたという。
中田氏は入団1年目のテンピキャンプについて、まずこう話した。「部屋がね、小林繁さんと一緒だったんですよ。僕らからすると、ずっと大エースじゃないですか、巨人から来てね。行きの飛行機も隣でした。で、もう寝れなくて、寝れなくて……。横を見たら“ウワっ、小林さんだ”ってなったし……。で、部屋子ですからね。そこでもまた小林さんがいるわけですから、また“ウワっ”ですよ。最初はまぁそんな感じでしたね」。
1976年、1977年に18勝をマークするなど巨人の主力投手だった小林は、江川卓投手の巨人入団問題に伴って1979年2月に阪神へ移籍。同年に22勝で最多勝、翌1980年も15勝を挙げ、阪神のエースとして大活躍していた。中田氏にとっては初めてのプロ野球キャンプで初めての海外。慣れぬ環境に加えて隣には大スターと、緊張する条件が揃いすぎていた。
ミスタータイガースの凄さも感じたという。「宿舎はコテージみたいなところで、僕らの部屋は2階でした。駐車場みたいなところがあって、ピッチャーはそこでシャドーをやったり、バッターはスイングしたりする時間があるんですけど、夜中に時差ボケで寝れないなぁと思っていたら、何か声が聞こえてきたんですよ。『ハァッ! ハァッ!』ってすごく響き渡る声がね」。
「あれは今でも覚えていますね」と中田氏は話す。「カーテン越しに外を見たら、掛布さんが1本足で立っていて、『ハァッ!』ってスイングしているんですよ。1人で。みんなと一緒の時間じゃなくて、夜中に1人でね。それがまた月明かりで影ができてねぇ……。それを見た時に、ウワー、やっぱり掛布さんは違うんだなって思いました。腹の底からの『ハァッ!』ってやつ。すごいなぁってね」。超一流の姿に驚くばかりだったそうだ。
小林繁氏に「すごくかわいがられた」
同室だったエースからも「すごくかわいがられた」という。「キャッチボールもいつも小林さんでしたしね。アドバイスとかは特になかったんですけど、小林さんもみんなが見ているところでは、あまり見せないって感じでした。シーズンに入ってからは移動日も必ず球場に来てポールからポールを10往復ダッシュ。僕も一緒にやりました。小林さんは『これを1年間やったら全然違うぞ』って言っていましたね」。
キャンプ、オープン戦と緊張&刺激の毎日の中で、中田氏は奮闘した。「甲子園での巨人とのオープン戦に先発して7回を0点に抑えたのは覚えていますね」。公式戦でのプロ初登板は開幕4戦目の4月8日の広島戦(広島)。2番手で2回2失点(自責0)だった。2試合目の登板だった4月11日の巨人戦(甲子園)で初先発。0-1で敗戦投手も、9回1失点完投と力を発揮した。
「4回に中畑(清)さんにソロを打たれましたね。こっち(阪神)は北村(照文)さんが先頭打者で二塁打を打って、その後は(巨人先発の)定岡(正二)さんにパーフェクトだったんです。まぁ、勝てればもっとよかったですけど、全国放送だったので、親とかに(自身の好投を)見せることができて、それはそれでよかったなっていうのはありましたね」
だが、プロは甘くなかった。4月23日の中日戦(ナゴヤ球場)に先発し、中尾孝義捕手、谷沢健一内野手、レイ・コージ外野手に被弾するなど、わずか2/3で4失点KOされた。翌4月24日のヤクルト戦(甲子園)では3番手で登板し、角富士夫内野手とチャック・マニエル外野手に一発を浴びて2/3回を3失点でマウンドを降りた。そんな苦い経験を経ながら、中田氏はルーキーイヤーで必死の投球を続けた。
6試合目の登板だった5月4日の巨人戦(後楽園)で先発。5回2/3を4失点でプロ初勝利をつかんだ。試合は8-4。「大町(定夫)さん(3回1/3を無失点)にリリーフしてもらったんですよねぇ……」。テンピキャンプで小林や掛布の姿に驚き、刺激を受けて本格的に始まった中田氏のプロ野球人生は1年目から山あり谷あり。この後は右肩痛との闘いも始まることになる。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)