複数の勧誘も拒否…“自力”で名門校に入学 「どうにでもなれー」で克服したトラウマ

広島で活躍した天谷宗一郎氏【写真:山口真司】
広島で活躍した天谷宗一郎氏【写真:山口真司】

スカウトなく…他校からの誘いを断り、猛勉強して志望校に進学

 最初が肝心だった。広島でクリーンアップも打った元外野手の天谷宗一郎氏(野球評論家)は「メンタルに左右されやすい性格だった」という。福井商では1999年の1年秋から外野のレギュラーを獲得したが、これには春夏通算36回甲子園出場の名将・北野尚文監督に初めて見せた打撃も関係していた。「どうにでもなれーって思って1球目、パキーンって打ったんです」。鯖江ボーイズ時代に硬式球が怖くて挫折した過去があったが、それで一気に克服したという。

 天谷氏は鯖江市立鳥羽小6年生の時に亡き祖父・幹男さんが「福井商で野球をやって甲子園に出てほしい」と話していたことを母・佳恵さんから聞いた。その時から福井商進学を目標に掲げ、鯖江ボーイズに入った。しかし、硬式球に怖さを感じて早々にやめることに。鯖江市立中央中の1年途中から軟式野球部に入って再スタートを切った。「3年生の時に県でベスト4には行ったと思う。優勝を狙えるチームだったけど最後にこけるのが多々あった感じでした」。

 1番や3番で主力として活躍した天谷氏には、いくつかの高校から声がかかった。だが、希望の福井商からスカウトされることはなかった。「本当に打っていたら、福井商からも話があったと思う。なかったので目に留まるようなものではなかったんでしょうね」。それでも諦めなかった。「『福井商しか行きたくありません』と言って、他の高校はお断りしました」。勉強も頑張って、中央中からの学校推薦枠で福井商に行けることになったという。

「鯖江市から福井商に行きたい生徒が少なかった。だから行けたんじゃないかな。先生からすれば、僕は問題児で、どちらかと言えば目の上のたんこぶみたいな感じの生徒だったと思うんでね」と笑ったが、福井商に行きたい強い気持ちが勉強にも力を入れさせたのは間違いない。「面接の時、張り切りすぎてめちゃくちゃ声がデカくて『もうちょっと静かにしてください』って言われたことも覚えています」。こうして念願がかなった。福井商野球部に入部できたのだ。

1球目をガツン! アピール成功し1年秋から外野のレギュラーに

 高校は自宅通い。「電車で行くときもあれば、車に自転車を積んで中間地点まで送ってもらって、そこからチャリで行くとか、いくつかパターンはありましたけどね。自転車に乗るのは30分くらいかな。まぁ、父親もそうですけど、基本、母親がメインで送ってくれました。今、考えてもむちゃくちゃ、感謝しています」。家族の応援も背に受けて高校生活は始まった。

「同級生にはスカウトされて野球部に入った子がいっぱいいました。体が大きいし、そりゃあ、そうだよねって子もいましたよ。でも、そういう子たちが優遇されているって感じたことは一度もなかったです」。レベルの違いもあまり感じなかったそうだ。「逆に、あれって思いました。不安はあったんですけど、そうでもないな、みたいな」。実際にスカウト組と遜色ない力を発揮した。「1年夏はスタンドで応援でしたが、1年秋からスタメンで使ってもらいました」。

 鯖江ボーイズでは硬式球に怖さを感じて辞めることになったが、福井商ではそれも克服した。「監督に1年生のお披露目みたいなのがあってバッティングしたんです。ボーイズの時の記憶がよみがえって、めちゃくちゃ(硬式球が)怖くて嫌だなぁって思ったんですけど『もう、どうにでもなれー』って感じで振ったら1発目にパキーンと打てたんですよ。そこからは単純なんで、もう大丈夫と思ってパカパカ打ったんです。たぶん、それもあって秋から使われたと思う」。

 笑いながら天谷氏は話を続けた。「僕ってけっこうメンタルに左右されやすい性格なんでスタートがよくて、本当によかったって思います」。もしも北野監督の前での1球目をうまく打てなかったら「たぶん、(その後も)駄目だったでしょうね」とさえ言う。「プロでもずっとそういうのがありました。最初がうまくいったらいいけど、いかなかったら調子も悪くなるって感じでね」。福井商での思い出の一打は、野球人生にも影響を与えるものだった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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