突然の不調で消えた“逆指名” 関東希望も胸打たれた熱意…下位でも「阪神しか行きません」
元阪神・川尻哲郎氏…ドラフト候補として出場した都市対抗では1回戦でサヨナラ被弾
日産自動車のサイドスロー右腕・川尻哲郎投手は、1994年ドラフト会議で阪神から4位指名されて入団した。大卒社会人4年目、25歳でのプロ入りだった。社会人3年目の1993年に上手から横手に投球フォームを変えたのが大成功。球速も変化球の切れもアップして、プロからも注目されるようになった。そのなかで阪神・菊地俊幸スカウトから熱心なアプローチを受け、ドラフト前には「阪神しか行きません」と公言。相思相愛の関係で虎の一員となった。
サイドスローに変えてから短期間で注目の右腕になった。1993年7月の都市対抗には、いすゞ自動車の補強選手として出場して2勝をマークするなど活躍。同年10月の社会人野球日本選手権には日産自動車の準優勝に貢献して敢闘賞を受賞した。日大二高時代も、亜大時代もほとんどプロスカウトとは無縁の状態に近かったが、一気に変わった。1994年のドラフト候補と言われるようになった。
当時のドラフトは大学、社会人の1位と2位選手には逆指名権があり「僕も逆指名の方で、もしかしたらって話もけっこう聞いていた」と川尻氏は言う。しかし、その流れはまた変わった。社会人4年目、1994年7月の都市対抗で日産自動車は1回戦で三菱重工三原に3-4でサヨナラ負け。「僕がリリーフで出てサヨナラホームランを打たれたんです。その時はスピードも140もいってないくらいだったと思う」。この辺りからプロの評価が下がり始めた。
同年8月にニカラグアで開催されたIBAFワールドカップ日本代表に選出されたが、目立つ活躍はできなかった。駒大・河原純一投手(元巨人、西武、中日)、日体大・山内泰幸投手(元広島)らがいた日本代表は3位。第1ラウンドのグループBは1位通過したが、決勝トーナメントでは準決勝で韓国に敗れ、ニカラグアとの3位決定戦に勝利した。「韓国戦は僕が投げて打たれた記憶があります。全日本では勝ちパターンのピッチャーじゃなかったと思う」。
1994年ドラフト4位で阪神入り「入ってからが勝負だなって」
この調子落ちで逆指名の話も立ち消えになったという。「(日産自動車の村上忠則)監督に『どうなっていますか』と聞いたら『そういう話はなくなったみたい』って言われました」。では逆指名以外はどうなのか。「『どこか来ているところはありますか』と聞いたら『阪神さんが見てくれているみたいだ』ってことでした。その後、最終的に阪神さんから『ぜひ、ウチに』というお話をいただいたんです」。
川尻氏は「(東京出身だし)できれば関東(の球団)がよかった。でもね、阪神さんに『欲しい』『来てくれ』って言われてうれしかった」と話す。他球団も下位指名ならあり得る状況ながら、都市対抗などでプロの評価が下がった時も、変わらず見てくれた阪神・菊地スカウトの熱心さに胸を打たれた。「駄目な時を見た上で、それでもって言ってくれたんですからね。そこで頑張ろうという気持ちになりますよ」。
ドラフト前にはマスコミの前で「阪神に行きます。他には行きません」と公言した。「そういうふうに発表してほしいと言われたので言いました。その時には“プロで飯を食いたいな”じゃなくて“食っていける”と思っていましたしね。自分が投げている球とか、いろいろ見ながらやっていたら“いける”と思ったんです。阪神が人気球団なのは知っていました。当時はそんなに強くなかったし、巨人とかよりはチャンスがちょっとあるのかなっていう気持ちも多少ありましたね」。
相思相愛の関係でドラフトでは阪神に4位指名された。日産自動車で同僚の5歳年下の北川哲也投手は逆指名でヤクルト1位となったが、もはや指名順位は何位でもよかった。「プロに入ったら一緒だからって思っていましたからね。最初は中継ぎでチャンスをもらえるだろうけど、社会人だから駄目だったら切られるのも早いだろうな、入ってからが勝負だなって気持ちでしたね」。プロ1年目の1995年1月5日には26歳となった。阪神での新生活が始まった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)