阪神入団で「すごい投手はいなかった」も… 予期せぬ2軍落ち、岡田彰布から崩れたリズム
川尻哲郎氏は1年目に阪神・淡路大震災に直面…横浜で自主トレ
東京・新橋でスポーツバー「TIGER STADIUM」を経営する元阪神、近鉄、楽天投手の川尻哲郎氏はプロ1年目の1995年1月17日、阪神・淡路大震災に直面した。野球どころではない状態となり、横浜に移動して古巣の日産自動車での自主トレに切り替えた。そんな中で始まった高知・安芸キャンプは「その時点ではプロってそんなにすごいとは思わなかった」という。だが、オープン戦で2軍落ち。立ちはだかったのはオリックス・岡田彰布内野手だった。
川尻氏は1994年のドラフト会議で阪神から4位で指名された。事前に「阪神に行きます。他には行きません」と公言。相思相愛の関係だけに入団交渉もスムーズに進んだ。背番号は「41」に決まった。「いくつかの番号があったんですけど、そのなかで選びました。41っていいじゃないですか。サイコロとかでいうとシッピンだから強いじゃないですか。親のクッピン、子のシッピンっていうでしょ、もう迷わず41で、ってね」。
プロで必ず成功してみせるとの強い気持ちでの新たな船出だった。「プロに入ることが目標、って人がけっこう多いじゃないですか、ドラフトで指名されるのを目標に、っていうね……。自分はそういう感じじゃなかった。入ってからが勝負だと思っていた。それがよかったと思いますよ。だいたいプロを目標にしちゃう人はそこで終わっちゃうケースが多いんですよ。絶対プロで壁にブチ当たるんだけど、そうなっちゃうと、ああ、やっぱり、みたいになってね」。
プロ生活は思わぬ事態から始まった。「入寮してから1週間くらいだったですかねぇ……」。1月17日午前5時46分に阪神・淡路大震災が発生した。「(西宮市鳴尾浜の)虎風荘にいました。怪我はなかったですけど、直下型だったんでね。僕は東京(出身)なので地震にはけっこう慣れていた。でも、あの揺れにはホント、びっくりしました。テレビを見て阪神高速がひっくり返っていたんでさらに驚きました。そんなふうにまでなっているとも思っていなかったので……」。
当然、練習は中止となった。「液状化現象で、僕の車は半分くらい泥に埋まっていました。買ったばかりだった日産のシーマ。日産で一番いいのを買って(日産自動車に)恩返しだってことで買ったんですけどね」。被災状況が明らかになっていくたびに気持ちも暗くなった。だが、プロ野球選手として、やることはやらなければいけない。「横浜に帰って、日産で練習させてもらおうと思って、(村上忠則)監督にお願いしました」。
オリックスとのOP戦で岡田彰布に食らった痛打…2軍へ降格
川尻氏はドラフト同期の北川博敏捕手と、当時プロ2年目の平尾博司内野手を誘って、日産自動車で自主トレを行った。「なんだかんだいって、昔から日産には愛着があるんですよ。自分を育ててもらったところだと思っていますから。帰れば、オフは絶対日産で練習していましたしね」と古巣への感謝の言葉も口にしたが、プロ1年目は、まさにいきなり日産に助けられてのスタートだった。それがあって、高知・安芸キャンプにも進むことができた。
初めてのプロ野球のキャンプだったが、スンナリ入れたという。「練習は社会人に比べると楽でした。社会人の時にとことんやっていたんで、そこまではしんどくなかった」が第一印象。「正直、そんなにすごいと思ったピッチャーはいなかったですね。その時は湯舟(敏郎)さん、マイク(仲田幸司)さん、猪俣(隆)さんや藪(恵壹)、中込(伸)、山崎(一玄)とかもいたけど、150を投げるピッチャーはいなかったんでね」と臆することは全くなかったようだ。
「僕も140くらいは投げていましたから。サイドだったし、昔140ってことは145くらいの価値があるよって言われていましたから。出た試合はしっかり仕事をすること、それを1年間続けられるように頑張ろうって思っていましたね」。1年目から勝負と意気込み、それなりの自信も芽生えてのキャンプだった。だが、プロは甘くなかった。オープン戦で2軍落ちとなってしまった。
「日生球場でのオリックス戦でね、岡田(彰布)さんに打たれたんです。追い込んでから、スライダーをレフト線にツーベース。それで点を取られちゃってファームになりました。けっこう疲れていて、カーブも曲がり切れていないところがあったんです」。気がつけばいつもの状態ではなくなっていたという。プロ1年目の開幕は2軍スタート。背番号41の26歳ルーキーはそこからはい上がっていくことになる。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)