たった2時間半の勤務…叩かれた陰口「給料ドロボー」 求めた安定、仕方なく選んだ社会人野球
西村徳文氏が明かす宮崎・福島高→鹿児島鉄道局に就職した理由
1986年~89年まで4年連続盗塁王に輝き、1990年に首位打者を獲得した西村徳文氏は、1981年ドラフト5位で鹿児島鉄道局からロッテに入団した。宮崎・福島高から社会人野球に進んだが「野球はやりたくないけど就職しないといけない」と“安定”を求めての決断だった。
大学進学は頭になかったという西村氏は、叔父が働いていた国鉄への就職を目指すことにした。「公務員みたいなものですから。安定している。定年まで働いて退職金をもらって……とイメージしていました」。しかし当時の鹿児島鉄道局の就職倍率は30倍以上。大卒のエリートたちが集う難関だった。
そこで先輩の助言もあり、10月下旬に野球部のセレクションを受けることになった。「当然無理だと思っていました」と“ダメ元”で挑んだ3日間。後から聞いた話では、すでに入部者の枠は埋まっていたのだという。
セールスポイントを聞かれて「足が速い」と答えると、集められた現役部員20人ほどと横並びで100メートル走が行われた。一番に駆け抜けたのは西村氏だった。「シーズンオフだったのでラッキーだったんです」と謙遜するが、よほど印象的だったのだろう。臨時雇用員ではあったが、関門を突破した。
「1、2年したら辞めようかなと思いながら練習していましたね」
喜びの一方で、野球も“仕方なく”続けることになった。「国鉄に入りたかったので、野球はすぐ辞めたいなと。1、2年したら辞めようかなと思いながら練習していましたね」と振り返るように、まだまだ“本気”とは程遠かった。
午前8時半から11時まで鹿児島駅で草むしりやペンキ塗りなどの雑用を行い、午後からは野球。ほかの局員からは陰口をたたかれ、「給料ドロボー」と言われたこともあった。そんな厳しい日々を送る西村氏に転機が訪れる。
社会人野球も3年目に差し掛かったころ、プロのスカウトが視察するようになった。「こんな気持ちでやっている人間に来るわけない」と思いながら、4年目の九州大会予選で敗退後、6球団のスカウトと面接をした。“ドラフト外”もあった時代。「本当にかかるのかな」と懐疑的な気持ちで、運命の日を迎えた
(町田利衣 / Rie Machida)