ドラ1入団も「口で言えないようなつらさ」 思わぬ“洗礼”…阪神右腕が抱えた苦悩

阪神で活躍した上田二朗氏【写真:山口真司】
阪神で活躍した上田二朗氏【写真:山口真司】

上田二朗氏は東海大から1969年ドラフト1位で阪神に入団

 屈辱からのスタートだった。1969年ドラフト1位で阪神に入団した右腕・上田二朗氏(野球評論家)はプロ1年目(1970年)の高知・安芸キャンプでいきなり悔しい思いをした。「“ファンは太田幸司(投手、三沢→近鉄1位)と田淵(幸一捕手)のバッテリーを望んでいた”と新聞に書かれたんです」。阪神は村山実監督兼投手の意向で、1位を太田から変更したが、キャンプで蒸し返された。「口で言えないようなつらさだった」と打ち明けた。

 阪神にドラフト1位で入団した上田氏は、東海大初のプロ野球選手だ。首都大学リーグで通算39勝、大学4年の1969年には全日本選手権初制覇の立役者になった実績を引っ提げてのプロ入り。背番号は16に決まった。「ひとつ年下の(1966年の第1次ドラフト2位で)釧路江南高から入った(投手の)平山(英雄)君がつけていた番号だった。私は『空いている番号でいいです』と言ったんですが、村山さんが『16番を』って言ったらしいです」。

「16」に関して上田氏は笑いながら、こう付け加えた。「ロッカールームに行ったら平山が『誰や今度の新人で、俺の背番号取りよったヤツは』と言ったんですよ。マネジャーに『おい、平山、何言っているねん』と言われ『冗談です。冗談です』と答えていたけど、私も『すまんかったね。挨拶もしなくて悪かった。これは俺が望んだわけじゃない。球団から16番をつけろってことで』と話しました。平山は『いいんです。いいんです。上田さん。冗談ですから』と言っていましたけどね」。

 真意はともかく、それも激しい競争の世界ならではの話だろう。上田氏のプロ1年目はそんな形で始まったが、高知・安芸キャンプでは何ともショックな出来事が発生した。「“ファンが太田幸司と田淵のバッテリーを見たかった、と言っていた”と新聞に書かれた。“それを望んでいた”ってね。記事(の論調)もそういう感じだったんです。何なのかと思った。たまらなかったですよ」と悔しそうに話した。

選手兼任監督の村山実氏に感謝「すごくフォローしてくれた」

 三沢高の太田は1969年夏の甲子園決勝で、松山商と延長18回0-0引き分け再試合など2日間の熱投で知られたエース。再試合では2-4で敗れたものの、甘いマスクで女性ファンが急増し、アイドル的な人気を誇った。阪神は同年ドラフト会議で当初、太田の1位指名を予定していたが、村山監督が上田氏を推して変更。そんな経緯もあって一部のファンが発言したのかもしれないが、上田氏の立場はない。

 しかも、ドラフトから時間も経過した春季キャンプでのこと、阪神ドラ1として、期待に応えようと張り切っていた時のことだ。「何でこんなことを書かれなければいけないんだって思いました。自分はこの場にいたらいかんのかなともね。もう口で言えないようなつらさだったですよ……。(和歌山で)新聞記者だった私の父も『こんなことを書かれるんかぁ。阪神に入るんじゃなかったなぁ』と言っていました。あの時はホント、しばらく悶々としていましたね」。

 そんな時に“熱血”で知られていた村山監督がアクションを起こしてくれたという。「村山さんがその新聞の記者を呼んで『何てことを書くんだ! タイガースがドラフト1位で獲った上田に対して失礼やないか! 即戦力であることを評価しないでファンの声だけで書くなんてあり得ないだろ!』とすごくフォローしてくれたそうなんです。それを人から聞いて、私は監督のところに行って『ありがとうございました。何が何でも頑張ります』と言いました」。

 上田氏は気持ちを切り替えた。「“もう(新聞に)出たことはしかたない。私が頑張って答えを出す以外ないんだから。答えを出したら、こんなことは言われないようになる”と考えることにしました」と村山監督に感謝している。「これも発奮材料になりました。まぁ常にそういうふうな闘いというか……。振り返れば、それもいい勉強をさせてもらったってなるんでしょうかねぇ」。1年目の上田氏は27登板で141回1/3を投げて9勝8敗、防御率3.00。きっちり即戦力として結果も出した。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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