「これ以上投げるな」 新監督に困惑…突如の路線変更、“否定”された日本式

薮田氏が語るロッテ時代…人生変えたバレンタイン監督との出会い
日米で17年間プレーした薮田安彦氏は20代の頃はなかなか1軍定着が叶わなかった。メンタルトレーニングに活路を見出し始めた頃、2004年から新監督がボビー・バレンタイン氏に。薮田氏自身も、それまでこだわっていた先発以外でもチャンスを求めるようになっていた。
「ローテーション争いには残れず、最初はロングリリーフとして開幕1軍でした。先発が崩れた時に備えているんですが、なかなかそういう役割が回ってこなかった。谷間で先発もしましたけど、負けている展開でリリーフするようになり、結果を残したおかげで、だんだんと僅差、同点と役割が変わっていった。さらに結果を残すと今度は勝ちパターンに入るようになりました」
監督の交代と自身のメンタルの変化。30歳にして状況はガラリと変わった。「技術は明らかに数値として出るものもある。球が速くなるのはわかりやすい。一方で、メンタルは分かりづらいんです。他人にメンタルが必要だと言われてもわからないし、トレーニングの結果強くなったかどうかは本人にしかわからない。あの時メンタルトレーニングを受けようと自分で思えたところが、僕のターニングポイントでした」。
具体的に、メンタルトレーニングはどんな効果があったのだろうか。「それまでは、ここに投げなきゃいけないとか、打たれたらどうしよう、などと考えて腕が振れなくなっていた。自分でプレッシャーをかけて、自分の首を絞めていました。でもトレーニングのおかげで、結果は投げた後にあるもので、投げる前からは考えなくなりました」。相手打者の情報や今の状況、捕手のサインの意図を理解し、自分のベストを尽くすことに集中できるようになった。
バレンタイン監督は「マイナスなことは一切言わなかった」
また、初めて経験する米国人監督。「マイナスのことは一切言わなかったですね。イライラして自分で発散しているようなときはありましたけど。スタッフに対してはわからないけど、選手に対しては一切なかったです」。こうしたバレンタイン監督の姿勢も、薮田氏の飛躍を後押しした。
ただ、問題がなかったわけではなかった。全てが米国式で練習でも球数が決められていた。「これ以上投げるなと。試合でも、リリーフは電話が鳴ってから作って、すぐ試合に入れ、それ以外は投げるなと」。当時すでにリリーフで実績があった小林雅英、藤田宗一両投手らにとって米国式の調整は難しかった。
ただ、バレンタイン監督も理解を示したという。「ボビーも2度目の日本だったので、理解してくれたんじゃないかと思います。もしかしたら、本人に聞いたら『1度目も柔軟だった』と言うかもしれないですけどね」。
理解ある監督との出会いでリリーフ投手として球界屈指の存在となった。2007年には34ホールドを記録して最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得。2006年には第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に出場し、同年オフに海外FA権を獲得。「WBCを経験したことで、メジャーでやってみたいと思うようになった。ただ、日本でタイトルを獲ってから行きたかったんです。ちょうどFAとタイトルが同じ年に重なりました」。条件は整った。あとは恩人であるバレンタイン監督が認めてくれるのかどうか、が焦点だった。
(伊村弘真 / Hiromasa Imura)
