コーチから理不尽な鉄拳制裁 即ゴミ箱に捨てた野球道具…怒り抑え「辞めまーす」

元広島・長嶋清幸氏、コーチから呼ばれてボコボコに
愛知県犬山市の「元祖台湾カレー犬山店」オーナーとして多忙な日々を送る長嶋清幸氏は広島など4球団でプレーした強打好守の外野手だった。私立静岡県自動車工(現・静岡北)からドラフト外で広島入りする際は「3年で駄目なら辞める」と決意していたが、1年目から1軍入りを果たすなど、年々、実力をアップ。ところが、そんな結果を出しながら3年目(1982年)の途中で「辞める!」と言い出したことがあったという。
打力は当初から高評価、守備力は底辺からスタートも猛練習で徐々にレベルを上げた。長嶋氏はプロで着実に進化を遂げていた。3年目の1982年は79試合に出場して、167打数44安打の打率.263、2本塁打、15打点、1盗塁。2年目までわずか1試合だったスタメン出場も40試合に増やした。スタメンの場合、守備位置は左翼中心で、打順は6番か7番が多かったが、後半戦の数試合は1番・高橋慶彦内野手に続く、2番打者でも起用された。
ダブルヘッダーで行われた9月5日のヤクルト戦(新潟)では2試合とも「6番・右翼」で出場して、いずれも4打数3安打の1日2回の猛打賞を達成。「それは前の晩に(日本酒の)越乃寒梅を飲み過ぎて意識を失った時だと思う。俺って日本酒が苦手だったけど、何か凄い飲みやすくて、どんどん飲んでいたら、意識が飛んじゃって、ホテルのロビーのソファーで朝まで寝ていた。マネジャーにめっちゃ怒られてね」。そんな状態で出陣して大活躍したわけだ。
その豪打豪傑ぶりを見せつけた1か月ちょっと前に「辞める!」と口にしていた。それは球宴期間中のナイター練習でのこと。古葉竹識監督がオールスターゲームにコーチとして出場していたため不在の日だった。着替えは5分以内と言われた中、長嶋氏は4分ちょっとで済ませたのだが、守れなかった選手がいた。すると大下剛史守備走塁コーチに長嶋氏が呼ばれて、ボコボコにされたという。
「納得いかなかったけど、俺は手を出せないから、手は後ろにしたまま。10何発やられたけど俺は前に出て行ったよ。一歩も引きたくなかったから。そしたら大下さんもちょっと後ずさりしたもんね。で、終わってユニホームをゴミ箱に捨てて、バットとグラブも全部捨てて『辞めた!』と言った。寮に帰って荷物をスーツケースに詰めて寮のおばちゃんには『辞めまーす、明日帰りまーす、おばちゃん、今までありがとね』って……」
「俺、悪くないのに」…翻意させた古葉監督からの電話
気持ちが収まらなかった。「おばちゃんには『長嶋くーん、そんなんやっちゃあ駄目よ』って言われたけどね」。それでも辞めなかったのは古葉監督に止められたからだった。「夜に古葉さんから寮に電話がかかってきて『兄弟喧嘩するな』って言われた。『明日、(大下コーチに)頭を下げに行け!』ってね。俺、悪くないのにって思ったけど、あの当時、古葉さんに言われたらさ、もう『はい、わかりました』しか俺の口からは出てこなかったからね」。
古葉指令通りに翌日、長嶋氏は大下コーチに頭を下げて“現役続行”となった。それで終わった。「大下さんとはノックを受ける時も2人で喧嘩しているようなもんだったよ。でもね、俺、あの人に言わせたからね。『お前はホント、大したもんや』って。そこからだよね、ホントにすごい親しく話ができるようになったのは。そういうのがあって俺はプロでやれたと思う。大下さんのおかげでもあると思っているんだよ」。
いかなる場合でも暴力は許されないが、長嶋氏の中では、その一件も消化されたという。「高校3年の時、俺は下級生への説教とかに絶対参加しなかった。それよりも1回だけ、2年、1年でこいつさえしめとけば周りがピリッとするってヤツをガツンとやっとけばよかったから。考えてみれば、あの時の大下さんも俺に対してそうだったんだよね。ああすることで周りに示すっていうか。俺ってね、そういう役割だったんだよ。最悪だけどさ」。
ハンパない精神力を持っていた長嶋氏だからこそ耐えられただけで、同じことをやられて平気な人はほとんどいないだろう。「だから誰にでもじゃない。大下さんはそういう目を持っている人なんですよ」とも断言した。古葉監督からの電話がなければ、どうなっていたかはわからないが、ここから大下コーチとの絆が深まったのもまた事実。3年目の後半戦ではさらに力を発揮し、背番号を0に変えて130試合に出場する4年目(1983年)の飛躍にもつながっていく。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)