激しすぎるプレーに「手首がなくなったかと」 大量の痛み止めでMVP…残る傷跡「絶対に故意」

元広島・長嶋清幸氏、1984年の日本シリーズで3本塁打放ちMVP
大舞台で大活躍だった。NPB初の背番号0、元広島外野手の長嶋清幸氏は1984年の日本シリーズでMVPに輝いた。広島が4勝3敗で阪急を下して日本一になった全7試合に「5番・中堅」で出場し、27打数9安打の打率.333、3本塁打、10打点。無類の勝負強さを発揮し、価値ある一打を連発した。第5戦では走塁中に負傷流血したが、それも気迫でカバー。気が入っている時は「たとえ150キロの球を肩に当てられても痛いと感じない」と言い切った。
1984年、高卒プロ5年目の長嶋氏はペナントレースの9月15、16日の巨人戦(広島)で史上4人目の2試合連続サヨナラ弾をぶちかますなど、インパクト大の活躍で広島のリーグ優勝に貢献した。持ち前の勝負強さがますます光ったが、その力は阪急との日本シリーズでも発揮された。3番・衣笠祥雄内野手、4番・山本浩二外野手に続く5番打者として全7試合に出場し、カープを日本一に導いた。
第1戦(10月13日、広島)では1-2の8回裏に阪急のエース・山田久志投手から流し打ちの逆転2ラン。フェンスに登って捕球を試みた福本豊外野手のグラブをかすめるようにレフトスタンドに飛び込んだ。「外めの変化球。外なのに詰まってね。あれ、いいバッターだったら多分センターにホームランを打つんですよ。俺はそれをグッとレフトの方に打ち返した」。狙い通りの球が来たという。
「あの場面、簡単に内角には投げて来ない。一応、引っ張ったら大きいのがあるんでね。だから、もう間違いなく外へシンカーか、外からのカーブかと思っていた。で、外のボールだったんですけど。意外と狙っていたんで半詰まりなんですよ。でも半詰まりだから押し込めた。ガーンって。だから落ちてこなかったんですよ」。広島はそのまま3-2で第1戦を勝利。長嶋氏にとっても最高のスタートになった。
1勝1敗で迎えた第3戦(10月16日、西宮)では1-0の3回に佐藤義則投手から満塁本塁打を右翼へ放り込んだ。「あの時の佐藤さんの球は速かったなぁ。西宮球場で140後半のスピードガンが出るってことは、実際は150後半だからね。あそこは出にくいから。よーいどんから三振をどれだけ取っていたかなぁ」。佐藤は初回を3者三振、2回先頭の4番・山本浩二に先制アーチを浴びたが、5番の長嶋氏を三振、6番の長内孝内野手も三振に斬った。
それが3回に乱れ始めた。広島打線は1番・高橋慶彦内野手の右前打などで2死満塁として、長嶋氏がガツンと一発だ。「(阪急捕手の)藤田浩雅は同学年で同じ静岡(御殿場西高)出身だからね。アイツはどっちかというと怒られたくないタイプなんですよ。バクチをせず、硬いヤツで打たれたところには投げてこない。外から変化球を打たれると、もうここ(内)しかないのでね。打ったのは真ん中ちょっとインサイド寄りの球だった」。

接触プレーで今も傷跡が残る怪我「スパイクがスパンと入った」
私立静岡県自動車工(現・静岡北)時代の長嶋氏は静岡では、強打の外野手として知られた存在だった。静岡県内の対戦相手で「俺に喧嘩をふっかけてくるヤツは誰もいなかった」というほどでもあった。同じ静岡の御殿場西から社会人野球・関東自動車工業を経て阪急入りした藤田のことは性格から熟知。その“独自データ”を日本シリーズでも役立たせていたわけだ。試合は8-3で広島が勝利。3回の満塁弾が何よりも大きかった。
広島は第4戦(10月18日、西宮)も3-2で競り勝ち、日本一へ王手をかけた。しかし、そこから連敗。3勝3敗となって第7戦(10月22日、広島)を迎えた。その試合で長嶋氏は1-2の6回に山田久志投手から同点ソロアーチを放った。そこからカープは勢いづき、7回に3点、8回に2点を追加。先発の山根和夫投手も10安打を浴びながら153球の完投勝利を収め、赤ヘルが頂点をつかんだ。
「第7戦のホームランは(6回の)先頭バッターで初球。向こうは初球から打ってこないと思っていたようだけどね。でも俺はその時、1番バッターでも2番バッターでもないし、見てからいけと言われることもなかったし、初球から甘いボールが来たらどんどん行けよっていわれるタイプなんで、そこらへんの遠慮がないんです。俺にセオリーをやっちゃうと駄目なんだよ」と長嶋氏は笑みを浮かべながら振り返った。
第7戦も試合の流れを広島に引き寄せる同点弾を放ったし、それまでも勝利に貢献する一打が多かったことでシリーズMVPを受賞したが、実は第5戦(10月19日、西宮)の途中で左手首を負傷していた。併殺潰しの走塁を仕掛けた際に、二塁を守る福原峰夫内野手にスパイクで踏まれた。「福原さんがジャンプしてバーンってね。あれは絶対に故意ですよ。でも故意だけど、別に仲が悪いわけじゃないですよ。4つくらい年上の方で普段は全然いい人なんでね」。
傷跡が今も残るほどの怪我だった。「あの時は手首がなくなったかと思った。スパイクがスパンと入ったんだね。かなり出血したし、もうホントに手首の感覚がなくなっていた。でも、こんな時に痛いとか言えないし、トレーナーにテーピングでグルグル巻きにしてもらって、試合に出たんだけどね」。その影響で第6戦も第7戦も万全ではなかった。「でも、あの頃は痛み止めの薬をバッカバカ飲んでいたし、試合では痛みを感じなかった。腫れていたけどね」。
その状態で攻守にわたって普通にプレーを続け、第7戦は貴重な同点アーチを放った。だが、長嶋氏はそれも当たり前のように言う。「簡単に言うとさ、5万人の前で江川卓さんの150キロが仮に肩に当たっても気が入っていたら、痛いとは感じない。誰もいない室内練習場で自打球が足に当たったら悶絶するくらい痛いけどね」。燦然と輝く1984年日本シリーズMVP。それは技術だけで得たものではない。あらゆる面での背番号0の凄さが詰まっての受賞だった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)