阪神から謝罪「やる気なくした」 成績は急降下…長嶋清幸が球宴前に告げられた“大人の事情”

広島など4球団でプレーした長嶋清幸氏【写真:山口真司】
広島など4球団でプレーした長嶋清幸氏【写真:山口真司】

元広島・長嶋清幸氏、1987年は前半戦好調…球宴初出場“内定”も

 ショックは大きかった。広島などで活躍し、NPB初の背番号0をつけた選手でもある長嶋清幸氏がむなしい思い出として語るのが1987年シーズン中の出来事だ。プロ8年目のこの年は開幕から好調をキープ。7月1日終了時点で打率.304、12本塁打の成績を残しており、広島・阿南準郎監督からは監督推薦でのオールスター初出場を告げられていた。ところが、それが土壇場でひっくり返されたのだ。

 1987年の長嶋氏は開幕から主に「6番・中堅」で出場した。5月7日の巨人戦(広島)では巨人先発の江川卓投手から2本塁打を放って勝利に貢献するなど活躍。6月16~18日のヤクルト3連戦(神宮)では1試合目が4安打2本塁打3打点、2試合目、3試合目がいずれも3安打2打点と3試合連続猛打賞もマークした。7月1日の中日戦(ナゴヤ球場)では12号本塁打を含むシーズン8度目の3安打と打撃好調で数字を積み重ねた。

 そんな時にうれしい連絡があった。「阿南さんに呼ばれて『お前、今年オールスターに出るから』と言われたんですよ。監督推薦で僕と(シーズン前半6勝0敗1セーブの)川端(順)さんを出すと……。『ホントですか。ありがとうございます』って言いました」。その年の球宴は前年(1986年)に広島が優勝したことで阿南監督が全セの指揮を執り、カープからは2人の他に大野豊投手ら8選手が監督推薦で選出されることになっていた。

「俺は1回も(球宴に)出ていなかったし、みんなでワイワイワイとお祝いじゃないけどやりました。川端さんから『おう、マメ(長嶋氏の愛称)頑張るぞ』と声をかけられて『はい、頑張りましょう』なんて言ったりしてね」と大いに喜んでいたという。ところが……。「出場選手の発表の日かな、また阿南さんに川端さんと呼ばれたんですよ。2人で『何だろうな』とか言いながら、行ったら阿南さんが『スマン』って。『えっ、どうしたんですか?』と聞いたら……」。

第3戦が甲子園…ファン投票選出ゼロの阪神から“お願い”

 急転、球宴落選を告げられた。「阿南さんは『阪神から電話がかかってきた。甲子園でオールスター(7月28日の第3戦)をするのに阪神の選手が少ないと格好がつかないから何とかしてほしいと言われた』みたいな話をされた。それで俺と川端さんの出場が駄目になったんです」。この年の阪神はシーズン前半から最下位に低迷し、ファン投票選出ゼロで、当初は監督推薦選手も少ない予定だったが、その“人数調整”により土壇場で長嶋氏たちが割を食うことになったわけだ。

「阪神側はその時に『2人には本当に申し訳ないことをした。もし誰が監督になっても優勝した時には(翌年の球宴選出で)そこのところを考慮させてもらいます』とか言ったらしい。阿南さんはそんなことを言っていました」と長嶋氏は話したが、その“お返し”を得ることはなかった。なにしろ、その後の阪神はほとんどBクラスの暗黒時代に突入したのだから……。ちなみに次に阪神が優勝するのは2003年で、長嶋氏は阪神の1軍守備走塁コーチだった。

 まさかの落選通告で1987年シーズンは一気に気持ちも萎えたという。「オールスターをすごく自分が成長するチャンスと思っていたからね。悪いけど、俺、そこから後半戦、全然駄目。もうやる気がなくなっちゃったもん」。この年の長嶋氏は後半に数字を下げて打率.288、15本塁打、53打点に終わった。それほどダメージは大きく「オールスターに出ていたら、もしかしたら首位打者も取れたんじゃないかと思えるくらい、頑張れたのに……」と話すほどだ。

 日本シリーズMVP(1984年)をはじめ、現役時代に華々しい活躍をした長嶋氏だが、オールスターゲームには結局、縁がなかった。「ああいう祭典は選手が成長するには最高の、一番のいい試合だと思うんだけどね」と無念そうに振り返る。つかんでいたはずの夢舞台への“出場権”が、すっかりその気になっていたところで無情にもスルリとなくなってしまった1987年の悔しい一件。それもまた忘れられない思い出になっている。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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