逃した“最強助っ人”「ショックだった」 阪神コーチの忘れぬ失態…暗黒時代の遠因に

西武などで活躍したアレックス・カブレラ【写真:産経新聞社】
西武などで活躍したアレックス・カブレラ【写真:産経新聞社】

元広島・長嶋清幸氏、阪神で現役引退→指導者の道へ

 外野手として広島など4球団でプレーした長嶋清幸氏は1997年に阪神で現役を引退した。1998年は前年から続く吉田義男監督体制で1軍打撃コーチ補佐に就任して指導者人生をスタート。新たに野村克也氏が監督に就任した1999年、さらに2000年も同じ肩書で選手とともに戦った。試合中の“野村の考え”も知ったし、2000年は渡米して新外国人調査も経験。「すごく勉強させてもらいました」と話した。

 1998年の吉田阪神では福本豊1軍打撃コーチの下、野村阪神になった1999年からは最初の2年間を柏原純一1軍打撃コーチの下で、長嶋氏は1軍打撃コーチ補佐を務めた。その期間が指導者としての基礎固めにもなったようだが、何といっても勉強になったのは“野村の考え”に直接、触れられたことだった。「ベンチ入りコーチの人数の関係で、俺は試合中、ユニホームを着られない人間だったんだけど、野村さんの時は一つの役割を任されていたんだよね」。

 それは試合中の配球チェック。「球種とコースを1球1球、全部つけてイニングが終わったら、それを野村監督のところに見せにいくわけ。それで監督が気付いたことをコメント欄にパーッと書き込むんだよ。それは俺しか見られないんだけど“すごい、ああ、こういう考え方なのか、なるほど”って思うことばかりだった」。名将の思考を生で見て、学び、コーチ業に役立てた。まさに最高の“授業”だった。

「よく話もした。野村さんは試合開始の5分前とか4分前とかにベンチに行くんだけど、それまではいつも俺と2人。監督室があるのに、そこにはいなくて必ずコーチ室にきてね。まぁ、その時はほとんどが世間話だったけどね」。野村体制2年目(2000年)のシーズン途中には約1か月半、渡米して新外国人調査も担当した。「あれもいい経験をさせてもらいました」という。

「のちに西武に行った(アレックス・)カブレラ(内野手)をウチもリストに入れていた。飛ばす力がすごくてね。あの時、ダイヤモンドバックスで、6試合くらい見て、そのうち4試合でスタメン。よーく見ることもできたんだよ。で、ヒットゼロ。三振を1試合で2、3個していた。変化球に全然駄目。これはちょっとなぁってやめたんだけど、(日本で)活躍したもんねぇ。あれはショックだったなぁ」。

広島など4球団でプレーした長嶋清幸氏【写真:山口真司】
広島など4球団でプレーした長嶋清幸氏【写真:山口真司】

イチ推しだったオリオールズのモーラは大ブレーク

 その時の長嶋氏のイチ推し選手はオリオールズのメルビン・モーラ内野手だったという。「内野も外野もできて、長打もあって、バッティングもうまい。それでいて試合にあまり出ていなくて、本人も日本でって言っていた。その前に台湾でもプレーしていたんでね。オリオールズの編成のトップは『監督がいらないと言ったら出せる』って話だったんだけど、ショートで使うってことでポシャっちゃったんだよね」。

 モーラはそのままオリオールズで頭角を現し、2003年と2005年にはMLBオールスターゲームに選出された。2004年にはマリナーズのイチロー外野手に次ぐ、アメリカン・リーグ2位の打率.340をマーク。シルバースラッガー賞(三塁手部門)も受賞した。長嶋氏は「絶対スゲーな、こいつって思ったもんね」と悔しそうに話す。これまた逃した魚は大きかった。「獲得できたイバン・クルーズ(内野手)は活躍できなかったけどね」と苦笑したが、そういうことも含めて勉強になったわけだ。

 野村阪神3年目の2001年、長嶋氏は2軍打撃コーチになった。「野村さんに『お前も俺と2年やって配球とかいろんなことで誰よりも一番話をしたし、見ているはず、若い選手にそういう話もできると思うから2軍でやってくれないか』って言われた。まぁ、それは表向き。はっきり言って、野村さんにとって俺は別に1軍にいてもいなくても関係なかったんじゃないかなぁ、だから2年目の途中にアメリカにも行かされたんだろうしね」。

 長嶋氏はそう言って笑ったが、野村監督と接したことは何よりも大きな財産になった。その後、岡田彰布氏、星野仙一氏、そして落合博満氏の下などでコーチを務め、指導者としても力を年々、発揮していくが、“野村の考え”がそのベースになったのも間違いない。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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