2浪で慶大進学→プロ入り確実視も選んだ社会人 社業専念も検討…建てた人生設計

元西武、広島の鈴木哲氏…2浪の末の慶大進学
西武、広島でプレーした鈴木哲氏は福島高から2浪して慶大に進学した。福島高は県内随一の進学校ではあったが、野球部の練習は強豪校並みの厳しさだった。心身ともに鍛えられたため、2浪の末の入部でもブランクの不安はほとんどなかった。
「受験勉強をしている間も太らなかったので、なんとかなるかなと思っていました。練習は全然していなかったので、最初は体力が落ちているのを感じましたけどね。やっぱり高校で厳しい練習を続けていたから、身体がそれを覚えていたんでしょう」。練習に「なんとかついて行けた」ことで、1年生の夏には早くも遠征メンバーに入るようになった。1年生はわずか3人ほどしかいなかったという。
東京六大学の名門・慶大への進学だったが、上級生を見ても大きな驚きはなかったという。「僕自身はある程度、球が速かったので、自信はありました。それに当時の慶応大学は、あまり強くなかったんですよ。僕が2年生の時に13年ぶりに優勝したくらいですから」。周囲のレベルの高さにショックを受けるようなこともないまま、2年生からは主戦級の投手として活躍するようになり、優勝にも貢献した。
4年時には東京六大学屈指の投手と評価され、ドラフト指名確実とも言われていたが、鈴木氏本人は社会人野球の強豪である熊谷組への入社を表明。結局、指名する球団は現れなかった。鈴木氏は当時をこう振り返る。
プロ入り確実のはずが社会人へ「学生が会社を選べる時代」
「当時はバブルの時代で企業の採用数も多く、学生が会社を選べる時代でした。私自身は海外志向があったので、海外に関わる仕事に大きな魅力を感じていた。そういう仕事がしたいという思いが強くなっていたんです」。熊谷組では、ある程度野球をした後は社業に専念するつもりだったという。「特にお願いしたわけではなかったのですが、最初から海外事業部に配属されました。新聞などで海外志向だというコメントが出ていたのを、見てくれていたんでしょう」。
ただ、仕事は午前中だけで午後は野球の練習。「なかなかしっかりと仕事をやらせてもらうまでにはならなくて、勉強をさせていただいたという感じでしたね」と今でも恩義を感じている。熊谷組では2年間エースとして活躍し、都市対抗野球では1年目にベスト4、2年目にベスト8へ進出する原動力となった。
社会人1年目にはソウル五輪のメンバーにも選ばれた。同チームには野茂英雄氏、古田敦也氏、野村謙二郎氏らのほか、潮崎哲也氏、渡辺智男氏、石井丈裕氏など後に西武で同僚となる選手も複数いたが、「関東以外の選手のことはほとんど知らなかった」。ただ、学生時代に日米大学野球のメンバー入りしていたため、米国の強さは知っていた。「実際、ソウル五輪のメンバーから多くの投手がメジャーのドラフト1位になっていました」。米国に敗れ、惜しくも銀メダル。自身は予選リーグ、グループBのオランダ戦で2イニングに登板した。
大卒選手は社会人で2年間を経れば、ドラフト指名が解禁となる。1989年のドラフト会議で、西武が2位で鈴木氏を指名。しかし、大学卒業時と同様でプロの誘いをすぐに受け入れることはできなかった。「自分を客観的に見た時に、どうなのかなと考えるところがいろいろとありました。熊谷組にもすごくお世話になっていたし。考えをまとめて結論を出すのに、ちょっと時間がかかりましたね」。
熟慮の結果、最終的にはプロ入りを決意。当時の西武は直近の5年間で4度のリーグ優勝、3度の日本一に輝いていた常勝軍団。鈴木氏は入団後、それまでの野球人生で感じたことのない雰囲気を味わうことになった。
(伊村弘真 / Hiromasa Imura)
