元虎戦士が“激変”「ハマりました」 半年足らずで20本の量産モード…マネた大打者

元阪神・狩野恵輔氏【写真:山口真司】
元阪神・狩野恵輔氏【写真:山口真司】

元阪神・狩野恵輔氏、マネした“落合神主打法”

 元阪神捕手の狩野恵輔氏(野球評論家)は2000年の群馬県立前橋工3年春から突然、本塁打量産モードに突入した。「2年生の冬までは2、3本しか打っていなかったのに、3年春から夏までの間に20何本打ったんですよ」。冬の間にウエートトレーニングの肉体強化も含め、練習を重ねた。打撃のタイミングの取り方などをいろいろ研究したそうだが、一番大きかったのは、落合博満氏(元ロッテ、中日、巨人、日本ハム)の“神主打法”を導入したことだという。

 狩野氏はドラフト3位で阪神に指名された2000年の高3春から強打強肩の捕手としてプロからも注目される存在になった。高校通算25本塁打とされるが、そのうちの22本、もしくは23本は高3春から夏までの4か月ほどで記録したものだから、いかに急成長を遂げたかわかるところだ。「自分でも変わったなと思うくらい変わりましたからね」。その大きなきっかけになったのが“落合神主打法”をマネたことだった。

「タイミングの取り方をいろいろやって、僕の場合、足を上げたら突っ込んじゃうから打てないというのがわかった。それだと変化球に対応できなかったんでね。その当時、プロでも足を上げる選手が多かったんですけど、僕は上げたくない。じゃあ足を上げないですごい人は誰だろうって、やっていって、たどりついたのが落合さんでした」。落合は1998年に現役を引退していたが、昔の映像とかを見て研究したそうだ。

「落合さんの軽く打って飛ばすっていうのがすごいなと思いました。なんであんなにうまく飛ばせるんだろう、インコースをライトスタンドに運ぶとか、どうやって打つんだろうとかね。僕は引っ張りが多かったんで、ライトにどうやって打とうというのもあった。それで、あの神主打法をマネてみたんです」。3冠王3度のオレ流・落合のようにバットを体の前に高く掲げて、ゆったりと構えてみたところ「ハマりました」という。

「間違いなく変わりました。球が見えるようになり、変化球も打てるようになった。配球も読むようになった。ここで真っすぐはこないよな、じゃあ変化球を待とうとか、そういう何かすごく、いろいろパワーアップしたような……」。3年春の群馬大会では決勝で一場靖弘投手(元楽天、ヤクルト)を擁する桐生第一を下して優勝した。名門・前橋工の「4番・捕手」として打ちまくり始めた。

最後の夏の大会直前、ストレスによる胃腸炎に

「確か、その大会ではホームランを2本打ったと思います。でもね、(決勝で)一場を僕は打てなかったんです。それは悔しかった。一場のスライダーが打てなかったので何としてそれを打てるようになりたいと思いましたね」。春の関東大会は準々決勝で作新学院に1-8で7回コールド負け。「これも強かった。それもまた目標になりました」。負けてまた研究した。それがその後の本塁打量産にもつながっていった。

 だが、高校生活最後の夏の大会直前にまた試練があった。狩野氏の体に異変が発生した。「大会の2日前か、3日前だったんですが、学校の自転車置き場に着いた瞬間に腹痛に襲われて、激痛で立てないくらいになったんです。たまたま、その時オヤジが(学校に)来ていたので病院に連れていってもらったら、ストレスによる胃腸炎でした。にきびも体中にできていて……」。原因は“1回戦で負けられない”というプレッシャーだった。

 前年の1999年、前橋工はまさかの初戦敗退を喫し、監督交代劇も起きた。その時も捕手を務めた狩野氏にしてみれば、同じことは絶対に繰り返せない。しかも今回は主将で4番の立場だ。春の群馬大会を制していたし、自身も昨年よりグンと成長し、強打の捕手になっていたが、夏の大会が近づくにつれて、何とも言えない緊張感が高まり始めた。ついには体にも変調が起きたわけだ。

「(腹痛が)治って次の日が(前橋東との)1回戦だったのかな。僕ね、1打席目も2打席目も打てなかったんですよ。球が遅いピッチャーなのに、何やっているんだろうって感じでした。でも、点が入ったらそれも変わりました。3打席目の時は、点差もあったし、もう勝てるなって思ってリラックスしていけたらホームラン。そこから緊張もなくなったんです」

 狩野氏は最後の夏で当時の群馬大会新記録である4本塁打を放った。1回戦の序盤こそ大変な思いをしたが、ひとたび解放されてからは急成長した姿を見せつけた。決勝で桐生第一に敗れ、甲子園にこそ行けなかったものの“落合神主打法効果”は絶大だった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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