元虎戦士が“絶望”したプロの世界「えっ、これが2軍」 飛ばぬ打球に苦悩…悟った限界

元阪神・狩野恵輔氏、“新庄背番”の「63」
鼻をへし折られた。2000年ドラフト3位で阪神入りした狩野恵輔氏(野球評論家)は入団早々、プロのレベルの高さに衝撃を受けたという。「えっ、これが2軍って思いました」。想像とは違いすぎる世界だった。「“力がなさすぎる”と言われました」。プロ1年目は2軍で15打数1安打。ただし、へこんだだけで終わらなかった。シーズン後の秋の教育リーグで本塁打を放つなど、徐々に……。師匠との出会いが踏ん張らせた。
阪神での狩野氏の背番号は「63」に決まった。球団から与えられた。「聞いた時は、結構大きい番号だなと思いました。でも、その後に『新庄(剛志)さんが(阪神入団1年目の1990年~1992年まで)つけていた』と言われて、それはそれでうれしいなって思いましたけどね。僕らの代は(入団1年目に)背番号が大きい人が多かったんですよ。ちょうど(小さい数字が)空いていない年だったんです」。
同期入団のドラフト1位・藤田太陽投手(川崎製鉄千葉)が「15」。2位の伊達昌司投手(プリンスホテル)が「49」。4位・赤星憲広外野手(JR東日本)が「53」。5位・加藤隆行投手(長崎工)が「62」。6位・沖原佳典内野手(NTT東日本)が「8」。7位藤本敦士内野手(デュプロ)が「56」。8位梶原康司内野手(九州東海大)が「61」で、1位の藤田と6位の沖原以外は大きめの数字だった。
阪神「63」の先輩・新庄が1993年から「5」に変更したように、狩野氏も「活躍して変えればいいんだ、くらいの気持ち。いつかいい番号にしたいなと思っていました」と振り返った。そして「プロに入れて、鼻が伸びてきて、すぐ活躍できるやろ、って思っていたんですよね」と苦笑して、こう続けた。「思い切り鼻を折られました。えらいところに入ってしまったな、これだけ差があったんだってわかって、えらそうにしていた自分が恥ずかしいみたいな……」。
プロ1年目の2001年は2軍スタートだったが「えっ、これが2軍なん、と思った」という。「ピッチャーはスライダーが曲がるし、カーブも凄いし、真っすぐも速い。バッティング練習したら、みんな柵越えしているのに、僕だけ木製(バット)で打ったらインフィールドフライを越えるくらい。“想像していたのと全然違う。これはちょっとやばいんじゃないか”って思い始めて、キャンプが終わる頃には心の中で“これは無理やなぁ、どうしよう”って……」。
1年目の狩野氏は2軍で15打数1安打だった。「その1本もセカンド内野安打ですよ。僕はそこから始まったんです」。まさに打ちのめされた日々だったが、気持ちは切らさなかった。吉田康夫コーチの存在が支えになったという。1984年のロサンゼルス五輪金メダルの野球日本代表メンバーで、1985年のドラフト5位で三菱自動車川崎から阪神入りした吉田捕手は1997年に現役を引退し、阪神で指導者となり、狩野氏が入団した時は2軍育成コーチを務めていた。
「まず入った時点で、力がなさすぎるってことでウエートトレーニングで強化しろと言われたんです。で、その時に吉田コーチが『ウエートについてやってあげる。やるぞ』って」。当時の阪神2軍は岡田彰布監督体制。「岡田さんは練習をパパパッとやってパッと終わるんですよ。試合のない日だったら(昼の)12時には終わって、あとは自分で練習せいって感じだったんです」。狩野氏は、その練習後にウエートトレに励んだ。
吉田康夫コーチの存在が支え「全部教えてもらった」
「吉田コーチに『何時からやるか』と聞かれた。僕は自分で調べて、ウエートしてすぐご飯を食べたり、プロテインを飲んだりがいいっていうのを見たことがあって、その時の寮の夕方のご飯が5時からだったんで、4時半に終わればちょうどいいなと思った。ウエートを1時間くらいやることを考えて『3時半でお願いします』と言いました。で、その時間でずっとやっていたんです」。するとある日、2軍首脳陣から呼ばれたという。
「『お前は何時からウエートしているんだ』と言われたので『3時半くらいからです』と答えたら『お前なぁ、吉田コーチが待っているのに、なんで3時半なんや、もっと早くやれ!』って怒られたんです。コーチの人たちはみんな1時くらいには帰っておられた。僕は自分のことしか考えていなかったんです」。ハッとした狩野氏は吉田コーチのところに行って「すみません、今日から1時半とか2時からでお願いします」と伝えたそうだ。
「そしたら『何でや』って。まともにそう言われたので、僕もまともに言っちゃったんです、怒られたことを。『確かに僕も悪いなと思ったので……』と言ったら、吉田コーチにも怒られたんですよ。『お前、誰のために野球をやっているんや。お前がうまくなるためにやるのに、なんで自分の時間を俺のために使おうとしているんだ! お前が3時半からというのなら俺は3時半からしかやらん!』って」。
狩野氏は吉田コーチに怒られながら感激していた。「メチャクチャ熱いじゃないですか。この人は僕のことしか考えていないと思いました。そこから裏切ることなく、ずっとウエートをしました。『おい、もっと、もっといけ』とか言われながらね。吉田コーチにはバッティングのことも『狩野、こうやった方がいいぞ』と教えてもらったし、もちろん、キャッチャーのこともリードを含めて徹底的に全部教えてもらいました」。
1年目の2軍で1安打に終わっても、前向きになれたのは、そんな信頼関係が構築されていたからだ。「実を結び始めたのは、秋の(教育リーグの)コスモスリーグ。キャッチャーの中谷(仁)さんが怪我かなんかして、お前、行けって言われて、その時にね、ホームランを打ったんですよ。しかも完璧な。その後もヒットが出るようになって、岡田(2軍)監督にも『バッティングがええやんか』って言ってもらえたんです。僕の師匠の吉田コーチのおかげです」。
狩野氏が初めて1軍に上がったのはプロ4年目の2004年だが、自信を失いかけた1年目に吉田コーチに出会い、鍛錬を続けられたことが何よりも大きかった。「もう、ずーっとでしたからね。メチャクチャしんどかったけど、メチャクチャ勉強になりました」と2軍育成コーチの後、1、2軍バッテリーコーチなども務めた師匠には感謝の気持ちでいっぱいだ。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)