生きがいを「捨てるしかない」 元最多勝投手に訪れた転機…運命変えた“たった10cm”

ヤクルト時代の川崎憲次郎氏【写真提供:産経新聞社】
ヤクルト時代の川崎憲次郎氏【写真提供:産経新聞社】

川崎憲次郎氏「プロに入るときに最多勝だけは獲りたいと思っていました」

 ヤクルトなどでプレーした川崎憲次郎氏は、プロ10年目の1998年に17勝を挙げて最多勝と沢村賞に輝いた。1993年に10勝を挙げて以降、徐々に白星は減り、1996年は未勝利に終わった右腕の復活の鍵となったのは、新球シュートの習得。野村克也監督のアドバイスを数年越しにやっと受け入れ「たった10センチが俺の運命を変えた」と言うほどの“転機”となった。

 野村監督から初めて「シュートを投げてみろ」と言われたのは1995年頃だった。「でも俺は三振を取りたい投手で、三振を取ることに生きがいを感じていた。シュートを覚えると取れなくなるから、捨てたくない。もうひとつ、昔の迷信でシュートを投げると肩肘を痛めるというのがあって怖かったんです」。名将のアドバイスは聞いているフリを続けていた。それが1997年、試合で投げ始めるようになったのだ。

「ストレートが、スピードは変わらないのに完璧な球をファウルされたり空振りが取れなくなることがずっと続いていた。あとは足首や肘の怪我もあった。何か変わらないとと思ったときに、頭をよぎったのがノムさんに言われたシュートだった。思い出してみれば、ノムさんは『俺が打てないから投げろ』と言っていて、ノムさんのような大打者がそう言うなら一理あるなと思ったんです」

 とはいえ、こだわっていた三振数が減る葛藤はなかったのだろうか。川崎氏は冷静に当時の自分を分析する。「もちろんありましたけど、大事なものを捨てることから始めました。この世界でやるには、捨てるしかなかった。つらいけど、変わるしかない。スピードは変わらないのに抑えられない現実があったから。プライドはあったけど、通用しないならこっちのほうがいいじゃんって。捨てたから正解が見つかったので」。野村監督は常々、「奇跡を起こすヒント」として、古いものにしがみつかないことと新しいことをやってみることを挙げていた。まさに、川崎氏が体現していた。

 1997年に7勝を挙げると、1998年は29試合に登板して17勝10敗、自身2度目の200イニング超え(204.1回)を果たした。それでも全く疲労感はなかった。これまでとは反対方向に、たった10センチ曲がるだけのシュートを投じ始めたことで「制球がよくなって四球が減って、球数が減った。三振を取るときは完投すると150球近く投げていたのが、2割減。肩肘にもいいし、投球に幅が出るから楽になる。昔のように力任せにいかなくていいし、いいことだらけだった」と世界が変わった。

「プロに入るときに、最多勝だけは獲りたいと思っていました。シュートを投げたことで、考え方が変わって大きな変化が生まれて、夢も叶えたんです」。いいことも悪いことも経験したプロ野球生活の節目の10年目。シュートを武器とした川崎氏は、先発投手最高の栄誉とされる沢村賞も手にした。

(町田利衣 / Rie Machida)

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