無念の腰痛から“育成契約” 元阪神捕手が経験した試練…「もう何をやっても」

阪神・狩野恵輔氏【写真提供:産経新聞社】
阪神・狩野恵輔氏【写真提供:産経新聞社】

元阪神・狩野恵輔氏、10年目オフに腰を手術

 無念の離脱だった。元阪神の狩野恵輔氏(野球評論家)は2010年10月のみやざきフェニックス・リーグで腰を痛めて、11月に手術した。「しびれが続いて、どうしようもなかった」という。それが試練の始まり。無理して2011年のキャンプに間に合わせたのが、いけなかったのか、3月のオープン戦で腰痛を再発させた。そこからは治ったかと思えば、また痛めるようになった。捕手として入団し、こだわりのあったそのポジションも……。つらい現実だった。

 狩野氏にとって2010年10月10日、みやざきフェニックス・リーグの横浜戦(清武)で腰を痛めたのは大誤算だった。「僕が一塁ランナーで(二塁走者が)三盗しようとした選手が行くんかと思ったら、行かなかったんです。で、自分がピクッと動いた時に腰が抜けた感じになった。あっ、やばい、ギックリ腰や、やってしまったぁ、みたいな。そんなちょっとした動きだったんです。ああ、これでクライマックス(シリーズ=CS)も無理やなぁって……」。

 レギュラーシーズン2位の阪神は10月16日から3位・巨人とのCSファーストステージ(甲子園)を控えていたが、狩野氏はこの怪我により、出場できなくなった。「動けなかったですからね。まぁ、それはしゃあないわって思ったんですけど、治している途中でトレーナーに『これはギックリ腰ではない。たぶんヘルニアだよ』と言われたんです。ギックリ腰ならもう治っているときに治っていなかったし、しびれていたんです」。

 病院で検査した結果は、やはりヘルニアだった。「しびれが続いて、歩いてもしんどいし、もう何をやっても……。だんだん躓くようにもなったんです。歩いたら爪先が引っかかるんです。車を運転していても優しくブレーキを踏めないし、これは嫌だなぁと思った。それで、もう危ないから手術しようか、となって、自分も早く治した方がいいと思ったんで11月に手術しました」。オフの間にリハビリを行い、翌2011年2月の春季キャンプに参加した。

「先生から『手術してもすぐ(痛みが)出る人はいるし、1年リハビリして、さぁやろうとなって出ることもある』と言われた。『じゃあ1か月たってパッとやってもいいんですか』と聞いたら『駄目とは言わないけど、出る確率が高くなる。やめた方がいいけど1年待っても出ない保証もないです』と……。それで『じゃあ、僕は治ったら行きますね』と言いました。それがちょっと駄目でしたね。早く、早くして2月のキャンプに間に合わせたんですけどね」

元阪神・狩野恵輔氏【写真:山口真司】
元阪神・狩野恵輔氏【写真:山口真司】

オープン戦で腰痛再発…繰り返された悪夢

 この年から捕手ではなく外野手登録になったが、狩野氏は捕手と外野手の両立を目指して練習に励んだ。だが、3月のオープン戦で腰痛が再発した。「激しい痛みが出て、また動けなくなったんです」。無念の途中離脱。「もうそれからは手術をせずにリハビリで……。結局、椎間板性腰痛で腰が安定しなくなったんです。治ってもちょっとした動きでまた痛みが出る。復帰していけるなぁと思ったら、また、って感じ。その繰り返しでした」。

 プロ11年目、2011年の狩野氏は10試合、12打数2安打の打率.167、0本塁打、3打点に終わった。「2軍でも試合に出始めたら、また痛めた。それがよくなったので1軍に上がったんですけど、また……」。8月26日に1軍登録。その日のヤクルト戦(甲子園)に「7番・左翼」でスタメン出場し、3打数1安打2打点で、チームの勝利に貢献し、お立ち台にも上がったが、9月22日には登録を抹消された。また腰痛を発症したからだった。

 再発前の9月17日の広島戦(マツダ)では8回表に代打で出て、裏の守りでマスクをかぶった。それが、その年唯一の捕手出場だったが、同時に1軍では最後の捕手姿になった。「今、考えると、やはりキャッチャーは難しかったですね。やりたかったんで、やったんですけどね」。右肘痛や送球イップスに見舞われながらも懸命のプレーで正捕手の座をつかんだ。城島健司捕手の加入で実質、外野転向となっても捕手を諦めなかったが、この腰痛は重くのしかかった。

「次の年、2012年も(2011年と)ほぼ一緒なんです。8月に1軍に上がったんですけど、また腰をやってしまって……」と狩野氏はむなしそうに振り返った。そして、2012年オフには球団から育成契約を通告される。背番号は99から120へ。どうしようもない状況だったとはいえ、つらい出来事だった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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