阪神左腕に起きた悲劇「骨がバーンと」 復活の10勝翌年…低迷期に陥った“負の連鎖”

湯舟敏郎氏は1997年に復活の10勝も…1998年に骨折で1勝止まり
阪神低迷期にチームを支えた左腕である湯舟敏郎氏(野球評論家)はプロ7年目の1997年に自身3度目の2桁勝利を挙げた。27登板で1完封を含む3完投の10勝6敗、防御率3.56。1994年から3年連続5勝止まり、13敗の1995年と14敗の1996年は、いずれもセ・リーグ最多敗戦と苦しんだが、そこから抜け出す復活のシーズンでもあった。しかし、翌1998年には、またもや悪夢が……。痛恨の負傷が待っていた。
1997年シーズンから阪神監督には吉田義男氏が就任した。これが3度目の“阪神・吉田政権”。前回第2期時の1985年にはチームを日本一に導いた指揮官によって、1995年、1996年と2年連続最下位にあえいだ球団の再建が期待されてのことだった。大物新助っ人のマイク・グリーンウェル外野手が怪我やら「神のお告げ」とかで5月に退団する大誤算があったなか、6月終了時点で3位。最終的には5位に終わったが、最下位脱出には成功した。
そんなシーズンに湯舟氏は1993年以来の2桁勝利、10勝をマークした。前年まで2年連続最多の負け数という屈辱を味わったが、この年は6敗にとどめての復活だ。だが、湯舟氏は首を振る。「いやいや、10勝したといっても、6勝は横浜(現DeNA)戦ですから。その年は何か相性がよかったんですよ。決してバシッと抑えたわけじゃないし、自軍が点をとってくれたというのもあるんですが、途中からは対戦相手を横浜に結構絞って、投げさせてくれたんじゃないかと思います」。
4月9日の開幕4戦目に先発で起用され、4失点完投で1勝目を挙げた相手は横浜。2勝目(4月22日)も横浜というところから、この年の湯舟氏はスタート。その後、不調に陥り、2軍落ちも経験し、リリーフに回った時期もあったが、7月半ばから先発に復帰した。そんな中、8月29日に完封で8勝目、10月3日に7回1/3、無失点で9勝目、10月11日に8回2失点で4年ぶりの10勝に到達。そのラスト3勝の相手もすべて横浜だった。
1997年の横浜はリーグ2位。決して弱い相手から勝ち星を稼いだわけではないが「横浜戦がなかったら、やばかったです、その年も……」と湯舟氏はいう。それでも2桁勝利は簡単なことではないはずだが「まぁ、13敗や14敗したことを考えるとそうですけど……」と歯切れはよくなかった。その後の成績が、なおさらそう言わせるのかもしれない。翌1998年シーズンは、まさかの4登板、1勝1敗、防御率3.86で終わった。
守備でカバーに行った際に左足が「バチって…
その年の3登板目、4月22日の横浜戦(甲子園)では6回2/3、無失点投球で1勝目を挙げたが、そこから中5日で先発した4登板目の4月28日、ヤクルト戦(神宮)の3回の守りで左足甲を痛めて、戦線離脱となった。「ランナーが一塁にいて、確か度会(博文内野手)だったと思うけど、右中間を抜かれて、ホームのカバーに、軸足の左足で行こうとして1歩目を出したところでバチッっていって……」。
左足首はテーピングで固めていたという。「1993年にファームに行った時、ちょっとぬかるんだグラウンドで滑って、結構ひどい捻挫をした。以来、投げる時に軸足が外にぐにゃっとなるようになったので、そうならないようにテーピングで固めていたんですが、あの(1998年4月27日の)守備でバックアップする際、見ながらだいぶ下がりますよね。その時に足首にすごくストレスがかかる状態になって、どっかの骨がバーンと割れちゃったんです」。
それまでも似たような動きをしたことがあったはずだが、その日は悪い方にハマってしまったのだろう。「舟状骨の骨折でした」。強い衝撃や足首を捻った際に起こることが多く、治りにくいとされる怪我で、実際「長引きました」という。「骨がひっつけば大丈夫かなと思っていたんですが、走ったりすると痛くて力が抜けるんですよ。あれ、おかしいな、おかしいな、となって、もう一度検査したら、剥がれた骨が悪さをして関節の中の軟骨を削っていたらしいんです」。
結局、そのシーズンを棒に振り、手術することになった。前年(1997年)に2桁勝利で復活したのに、また苦境に立たされた。阪神も再び、最下位に転落し、吉田監督は責任をとって辞任。後任には、その年までヤクルトを指揮していた野村克也氏が就任することになったが、湯舟氏の調子はなかなか戻らなかった。「手術したら左足甲の痛みはなくなりました。走ったり、投げたりする中で痛みがあることはなかったんですけどね……」。
暖かい米国フロリダ州でリハビリ自主トレを行い、シーズンに備えたが「(骨折したことで)足の出方がまた変わったかもしれないし、ずっと投げていなかったってこともあったでしょうし、球の勢いが戻らなかったんです」とむなしそうに話す。プロ9年目、野村阪神1年目の1999年は13登板にとどまり、1勝6敗、防御率5.72と本来の力を出し切れずに終わった。ここへきてのつらく、歯がゆい状況だった。