“許されなかった”高卒ドラ1指名 後の日米182勝左腕に…スカウトに燻り続ける後悔

ヤクルト時代の石井一久氏【写真提供:産経新聞社】
ヤクルト時代の石井一久氏【写真提供:産経新聞社】

元ダイエースカウト・石川晃氏、高校時代の石井一久“発掘”

 5年ぶり日本一を達成するなど今や12球団屈指の戦力を誇るソフトバンク。その礎はダイエー時代の1990年代に築かれた。万年Bクラスだったチームの強化へ、編成部門は奔走。28歳で現役を引退し、スカウトに転身した石川晃氏もその1人だった。後に主力となる現監督の小久保裕紀や井口資仁、松中信彦をドラフトで獲得。辣腕を振るっていた石川氏は、まだ無名だった高校時代の石井一久(現楽天GM)の獲得にも動いたという。

 スカウト1年目の1989年は“大魔神”佐々木主浩獲りを画策したものの、球界の“暗黙のルール”もあって実現しなかった。翌1990年も年明けから精力的に活動。春先、高校野球の千葉県大会に足を運んでいた時のことだった。

「何試合かあって、朝から試合を見ていたけど、大した選手もいない状況だったんですよ。それで球場を出て昼食で弁当を買いました。ただ、食べる場所が見つからない。仕方なく球場に戻って、外野席で弁当を食べながら、コーラを飲んでいました」

 次の試合が始まり、何気なく試合を見ていると状況が一変する。東京学館浦安の左腕の動きが目に留まった。「いい体つきをしているなと思って見ていたら、凄くフォームがいいんですよ。球の勢いもある。『え~っ!』と驚いて、思わず弁当を落としちゃったんです」。身長180センチを超える大型左腕。当時2年生の石井だった。

 慌ててバックネット裏に移動しスピードガンで球速を計測。「いきなり148キロ出ました。130キロ台もあってバラつきはありましたけどね。ただ、カーブもブレーキが利いていて素晴らしい。もっと驚いたのはバッティング。弾丸ライナーで中堅にホームランを打った。ただ足がそこまで速くない。これはピッチャーだなと思いました」。周囲を見渡しても他球団のスカウトの姿はない。「私が一番最初に見つけた選手かもしれない」と心が躍った。

ダイエーなどでスカウトとして活躍した石川晃氏【写真:尾辻剛】
ダイエーなどでスカウトとして活躍した石川晃氏【写真:尾辻剛】

万年Bクラスの低迷期…固まっていた即戦力投手指名の方針

 翌日、早速高校のグラウンドに足を運んで投球をチェック。捕手の後ろから見守り「とんでもなく凄いピッチングだった。モノが違った」と振り返る。「これは来年のドラフト1位になる」と確信。千葉県内の自宅の住所を聞き出し、速攻で両親に「これから2年間、見させていただきます」とあいさつに出向いた。

 偶然にも石井の父が南海時代の石川氏のファンだったこともあり、すぐに意気投合。ただ、翌1991年ドラフトは、ダイエーは駒大右腕の若田部健一の指名で方針が固まっていた。同年まで14年連続Bクラスの低迷期。スカウト会議は「揉めた記憶がある」と語る石川氏が「1位は石井でいきましょう」と主張したが、将来性豊かな高校生より即戦力投手が必要なチーム事情が、それを許さなかったという。

 ドラフト会議では4球団が競合となった末に、若田部の交渉権をダイエーが獲得。石井は親戚が首脳陣にいたヤクルトが1位で一本釣りした。若田部は1年目から10勝を挙げるなど4度の2桁勝利をマーク。ダイエーの狙いとしては当たったものの、日米通算182勝左腕への未練は今も消えない。

「石井はいまだに『石川さんが一番最初に来てくれた』って言ってくれる。長い目で見たら、若田部ではなく石井にいくべきだったと思っています」。球界を代表する数多くの選手を獲得してきた敏腕スカウトの、忘れられない思い出の1つである。

(尾辻剛 / Go Otsuji)

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