韓国戦で痛恨失策 自室で絶望、自宅には嫌がらせ…「日本に帰れない」22歳を襲った恐怖

今江敏晃氏は第1回WBCで世界一経験も第2R韓国戦で苦い思い出が…
プロ4年目の2005年にレギュラーに定着してロッテの31年ぶり日本一に貢献した今江敏晃氏は、2006年に行われた第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で日本代表に選出された。憧れの存在だったイチロー氏とチームメートとなり、まだ若手だった今江氏にとって刺激的な日々だったが、韓国戦での痛恨の失策で「日本に帰れない」というほど追い詰められた。
高卒4年目の2005年にベストナインとゴールデングラブ賞に輝くなど一躍ブレークし、日本シリーズMVPでチームを日本一に導いた今江氏。まさに順調満帆なプロ野球人生を歩んでいた。そして当時22歳の若さで日の丸を背負うことになった。
そうそうたるメンバーが集結して主にベンチスタートだった今江氏は、第2ラウンド1組の第3戦・韓国戦(エンゼルスタジアム)で、岩村明憲の負傷により2回から三塁の守備に就いていた。0-0の8回、1死一塁から中前打で一塁走者が一気に三塁に向かってきた。中堅手・金城龍彦から完璧な返球が返ってきたが、待ち構えていたはずの今江氏のグラブからまさかの落球。直後に均衡を破る二塁打を浴び、日本は敗れた。
「大事に行きすぎて、ヘッドスライディングをされて弾かれた形でした。ミスをしてそれが点に絡んで負けた。相手は韓国というライバルチーム。あの時点では、その負けによってほぼほぼ決勝ラウンド進出が難しい状況だった。ホテルに帰るバスの道中のことも、チームメートに声を掛けてもらったかもわからない。もう頭が真っ白でした」
米国のホテルでは自室にこもった。全ての考えはマイナス方向にいった。「自分なんかに声を掛けられても困るだろうな……」という思い込みから、「誰にも会いたくないし、部屋からも出たくない。お腹が減っても部屋を出る気にならないし、ルームサービスなんかもできない」。追い詰められていたとき、日本にいる妻が電話でくれた言葉が響いた。

諦めかけた決勝R進出、スタメン起用に応えて決勝では適時打
「『もちろんいろいろな意見があると思うけど、世界中の人が敵に回っても私たち家族は味方だから』と言ってくれて、自分もうれしかったし、唯一頼りにできる人だったので、それはもう心強かったです」
実はこのとき日本では、自宅のポストに嫌がらせのものが入れられていたり、自転車に乗ろうとしたらサドルがなかったり、車のエンブレムが盗まれたこともあったのだという。そんなつらい思いをしながらも支えてくれた妻の思いに「家族にも迷惑がかかっている。僕が下を向いていてはいけない」と奮起。仲間たちの声掛けや食事の誘いなどもあり、立ち直っていった。
何よりも、同ラウンド最終戦でメキシコが米国に勝利する“波乱”が起き、日本の決勝ラウンド進出が決定。やり返すチャンスを得ることができた。準決勝、決勝とスタメン起用してくれた王貞治監督の“無言のゲキ”にも応えなくてはならなかった。準決勝の韓国戦(ペトコパーク)では、自身の代打で出場した福留孝介が決勝の2ランを放ってくれた。人生で代打を出されたことがなかった今江氏だったが「(PL学園の)大先輩。心の中では抱きつきたい、飛びつきたいくらいでした」と心の底から歓喜した。決勝のキューバ戦(同)では適時打も放った。頂点を掴み、ようやく本当の笑みがこぼれた。
「帰国して会見で『日本に帰ってこられないと思ったけど、帰ってこられてよかったです』って言ったら笑いが起きた。皆さんが笑ってくれるようなネタになってよかったなと思ったけど、自分の中ではずっと残っています。全国民から『何してんだ』と思われていたと思うし、後ろ指を刺されたりして日本に帰っても普通に生活できるかな、という思いだったので。だから運がよかったというかね、ほんっっっとに救われましたよ」
とはいえ、WBCはしばらく見ることができなかった。自分のあのときの映像が出るのでは……という思いがよぎってしまっていたという。「トラウマです。10年以上見られなかったけど、やっと最近見られるようになったんです」。20年近くが経った今、ようやく「野球だけでなく人生も絶対に失敗がある。経験者として後世に伝えていくことも大事かな」と穏やかな表情で話せるまでになった。
(町田利衣 / Rie Machida)