斎藤佑樹は「違った次元にいた」 反対意見も…確信していた“成功”「ダメだったとしても」

元ロッテ球団副代表の石川晃氏、斎藤佑樹1位指名の背景を説明
スカウトとして辣腕を振るい、万年Bクラスだったダイエーを常勝軍団へ導いた石川晃氏。2005年にソフトバンクを退団後、日本ハムのスカウトを経て2008年オフにロッテに招聘され、球団副代表兼本部長を務めた。2010年にチームは日本一を達成。同年ドラフトでは百戦錬磨の石川氏が、これまでになかった決断を下す。競合覚悟で早大の斎藤佑樹投手を1位指名した。
「当時の斎藤は、間違いなくお客さんを呼べる存在でした。あの頃のロッテはコアなファンはいたけど、まだ空席が目立っていた時期。(球場の)看板の収入も少ない。スカウトの時はそんな計算はしないけど、フロントは考えないといけないんですよ。本社の意向も、多少はありました」
早実時代の2006年夏の甲子園を制し、ハンカチ王子フィーバーを巻き起こした斎藤は、早大でもエースとして活躍。その人気は衰えを知らず、試合や優勝パレードなど斎藤が登場するところにはマスコミやファンが殺到していた。当時の早大には同学年に最速155キロ右腕の大石達也投手も在籍。「実力は大石が上でした。でもお客さんを呼べるかは分からない」と振り返る。
ダイエーのスカウト時代は小久保裕紀や井口資仁、和田毅らを世代No.1と評価して次々に獲得した敏腕も、実力より人気を評価せざるを得ない状況だったのである。「斎藤は違った次元にいました。無視できないところにいたんですよ」。スカウトからは反対意見も出たが「『この1位だけは我慢してほしい。ただ、必ず抽選になる。くじを外す可能性があるから、2番手はしっかり決めよう』と話しました」という。
「あの時の斎藤の人気は異常でした。獲得できれば、すぐに契約金の元は取れる。看板の収入も増える。先発がダメだったとしても、中継ぎで起用できる。全て含めて考えると、結論は斎藤でした」。大石は6球団が競合。斎藤も日本ハム、ソフトバンク、ヤクルトとの競合となり、日本ハムが交渉権を獲得した。
スポーツ選手のセカンドキャリア支援事業を検討
ロッテは外れ1位で東海大の伊志嶺翔大外野手を指名。今度はオリックスとの競合となった末に交渉権を獲得した。翌2011年オフ、自身を招聘してくれた瀬戸山隆三球団社長とともに退団する石川氏にとって、この2010年が最後のドラフト。ダイエー時代とは違った感慨深さがある。
故障もあった斎藤はプロでは期待ほどの活躍はできなかったものの、今もテレビ出演などで存在感を放っている。「4球団も重なったんだから、やっぱりみんな欲しかったんです。いまだに人気があるんですから本当に凄いですよ」。どんな選手がチームに必要なのか、常に最適解を求め続けてきた自負がにじむ。
ロッテ退団後は球界から離れ、高性能ガラリ販売などさまざまな事業に携わり、国内外を飛び回っている。「最近だと海外はアメリカ、中国、シンガポールやインドネシアも行っています」。スカウトや球団フロント時代と同様の忙しさの一方、違った充実感があるようだ。
「スカウト業でプロ野球界に選手を入れることをやってきたけど、今はプロ野球人生が終わった人をどういうふうに救って、育てていくかを考えています」。プロ野球選手を含むスポーツ選手のセカンドキャリア支援に関わる事業を検討しており「それを私の最後の仕事にしたい」と前を向いた。
右膝靭帯断裂などの大怪我で現役生活を3年で終えてスカウトに転身した石川氏は、引退後の生活の方が長いことを誰よりも分かっている。スカウトだったからこそ、獲得した選手の引退後が気になる。一線級の選手を次々と獲得してきた剛腕ぶりを発揮する舞台が、まだ残っている。選手の能力を見抜いてきた目の光は、今も変わっていない。
(尾辻剛 / Go Otsuji)