死球浴びて“威嚇の内角攻め”が裏目 投手相手に痛恨の1球…始まった悪夢の連敗

1986年に初の規定打席到達…一時は5番も「やっぱり8番だな」
悔しい負けだった。1986年の広島はリーグ優勝を成し遂げたものの、日本シリーズでは西武に3勝1分と王手をかけながら、そこから悪夢の4連敗。その年限りでの現役引退のミスター赤ヘル・山本浩二外野手の最後の花道を日本一で飾れなかった。正捕手だった達川光男氏は、シリーズの流れをも変えた第5戦、西武・工藤公康投手に許した、まさかのサヨナラ打を「今でも反省している」という。
1986年の達川氏は打撃も好調だった。前半終了時点で打率.291、5本塁打。球宴にも1983年以来、2度目の選出となった。後半戦も攻守に活躍し、128試合に出場し、初めて規定打席に到達しての打率.274、9本塁打、46打点の成績で広島のリーグ優勝に貢献した。「8番・捕手」が“定位置”だったが、9月21日の大洋戦(横浜)では「5番・捕手」でスタメン出場。3番・衣笠祥雄内野手、4番・山本の赤ヘル2枚大看板と組むクリーンアップも経験した。
「(チームは)左ピッチャーが全く打てなくてね。で、(大洋は左腕の)木田(勇)さんが先発だったかな。それで5番。その試合、(広島先発の北別府学投手が完封して2-0で)勝ったんですよ。私も1安打した。これは次も5番かなと思ったら(広島監督の)阿南(準郎)さんに『やっぱりお前は8番だな。8番に戻ろう』と言われたんですけどね」。苦笑しながら振り返ったが、それは山本の引退シーズンでの思い出の一コマでもあるようだ。
リーグ優勝決定は10月12日のヤクルト戦(神宮)。129試合目(当時は130試合制)だった。初回に長嶋清幸外野手の満塁弾で先制して主導権を握り、8-3で勝利した。達川氏は「8番・捕手」で出場。先発・北別府が8回3失点、9回は抑えの津田恒実投手がピシャリと締めた。V翌日、130試合目の10月13日のヤクルト戦(神宮)は7-8で敗れたものの、山本浩二27号ソロ、衣笠24号ソロとともに達川氏も9号2ランを放って、レギュラーシーズンを終えた。
しかし、西武との日本シリーズは悔しい結果になった。第1戦の延長14回2-2引き分け後、第2戦から第4戦まで広島が3連勝したが、第5戦から第8戦まで4連敗しての敗退だ。全8試合にスタメン出場した達川氏は特に第5戦(10月23日、西武)が忘れられない。1-1の延長12回1死2塁から先発・北別府をリリーフした津田が投手の工藤にサヨナラ打を浴びたシーンだ。
1986年の日本Sは全試合DH制なし…第5戦に投手・工藤に痛恨打
1ボールからの2球目だった。「あれは今でも反省しています。津田は(指の)血行障害を気にして『先輩、西武球場は寒すぎますよ』と言っていたのに内角直球を投げさせてしまった」。達川氏は12回表の打席で工藤に死球を食らっており、少し厳しいところに、との思いもあったという。「普通ならアウトローとかにゆっくり投げて、コントロールだけでセカンドゴロやショートゴロを打たせるところだったのに……」。
日本シリーズにDH制が採用されたのは、その前年の1985年からで、当初はDHとDHなしを隔年で行うことになっていた。そのため阪神が西武を4勝2敗で下した1985年の日本シリーズは全試合DH制で行われ、この1986年の広島-西武の日本シリーズは逆に全試合DHなしで開催された。(1987年からはパ本拠地でDH、セ本拠地でDHなしに変更)。そんな条件下で、西武の本拠地・西武球場での工藤との対決だったが、どうやら内角球も読まれていたようだ。
「工藤も工藤で、1、2、3(のタイミング)で……。彼もバッティングがよかったのでね」(達川氏)。うまくとらえられた打球は右翼線へのサヨナラ打になった。広島側にしてみれば、まさかの出来事で、悪夢の4連敗もここから始まった。結果的に、これが王手をかけていた広島の流れを変える一打にもなったわけだ。「大きな失敗をしてしまいましたよ」。達川氏は打者・工藤への配球を今なお嘆く。それは1986年の痛恨の1球として脳裏に刻まれている。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)