「本当に、あれ小学生か」 阪神OBも驚愕…目を奪われる肉体「ひとりだけ大人かと」

元阪神・中込伸氏【写真:山口真司】 
元阪神・中込伸氏【写真:山口真司】 

中込伸氏は1988年ドラフト1位で阪神入り

 甲子園球場近くで「炭火焼肉 伸」を経営するのが元阪神右腕の中込伸氏だ。山梨・甲府工で選抜出場を果たし、その後、定時制の兵庫県立神崎工に通う阪神球団職員の立場となって1988年ドラフト1位でタイガース入り。主力として活躍した一方で故障に苦しんだし、台湾に渡り、選手でも指導者でも実績を残しながら、八百長事件にも巻き込まれた。まさに波瀾万丈な野球人生を歩んできたが、その原点のひとつには阪神OBらからの“褒め言葉”もあった。

「お前、凄いな」「お前、いいな」――。1970年2月16日生まれ、山梨県甲斐市出身の中込氏は幼少の頃から、自身の野球について、いろんな人から、そう言われていた。最初は甲斐市立竜王南小学校2年の時。「4歳上の兄が小学校の軟式野球クラブに入っていたので、ついていった。そこで兄とキャッチボールして(周囲から)『ボールが凄い!』って言われた。まぁ、それで調子こいて、野球をやったような感じだったかなぁ」と笑う。

「体も小学2年生の同級生からしたら大きかった」という。運動神経も他より抜きん出ていた。小学校高学年の頃には、山梨県内でも目立つ存在になっていた。甲府市立富士川小出身で、後に阪神内野手として同僚となる同学年の久慈照嘉氏も当時の中込氏について「(小学校の山梨県大会で)対戦したこともあったけど、体がでかくて、ひとりだけ大人かと思いましたよ。本当にあれ、小学生か、ってね」と話したほどだ。

「ポジションはピッチャーかキャッチャー。大きいヤツがどっちかをやるって決まっていた感じだったのでね。6年の時には170(センチ)くらいあったのかなぁ。あまり覚えていないけど、チームもそこそこ強かったと思いますよ。全国大会とかは行っていないけど(甲斐市の大会では)優勝もしたことがあったと思います」。そんな小学校時代に元プロ野球選手から褒められたことも自信につながったそうだ。

「何年の時かは忘れたけど、野球教室があって、田宮謙次郎さんとかが来られて、教えてもらって『お前、凄いな』みたいな……。そう言われたら、やっぱり“木に登る”でしょ。じゃあ(野球を)やろうかってなったし、夢はプロ野球選手と言うようになりました」。選手として大阪(現阪神)、毎日大映(現ロッテ)で活躍し、指導者としても東映(現日本ハム)で監督を務めた大物・田宮氏の言葉に、なおさらその気になったわけだ。

中学に進むと「遊びたいってなっちゃった」

「プロ野球はジャイアンツファン。テレビに映るのは全部、ジャイアンツでしたからね」という中込氏だが、のちの阪神OB会長でもある田宮氏の存在もまた野球に結びつけたのだから、タイガースとの縁もその頃からあったのかもしれない。しかしながら、その野球人生は、そのままスンナリいかなかった。1982年、甲斐市立竜王中学に進み、軟式野球部に所属しながらも、小学生時代のような野球への熱が一転して、一気に覚めていったという。

「もともと野球は兄の影響でやりはじめたし、自分でやりたいと思ってやっていなかったということでしょうね。中学に入って、自分は遊びたいってなっちゃった。野球よりもみんなと遊びたいってね。だから中学の時は野球部に入ってはいましたけど、ほとんどやっていなかった。試合の時に、たまに投げたくらいでね」。小学生の時は将来が楽しみな逸材だったのが、中学生になってからは真面目に野球に取り組まず、注目されることもなくなった。

 1984年の中学3年時には竜王中が生徒数増加のために、甲斐市立玉幡中学校と分離。「僕が住んでいたところは玉幡中だったので、そっちに行くようになった。そこでも(軟式)野球部には入っていましたけど、まぁ遊びの方が主になっていましたからね」。結局、中学時代に野球で実績を残すことはなかった。それが再び変わるのは、当時、甲府工のコーチだった原初也氏(1985年から監督)との出会いがあったからだ。

「友達のお父さんが原さんと知り合いで『誰かいい奴おらんか』となって、真面目にやっていないけど僕を紹介してくれて、それで甲府工の練習に行ったんです。中3の夏過ぎだったかなぁ」。まともに練習していなかったのに、ピッチングで剛速球を披露した。「『お前、いいな、ウチに来い』って言われました」。やはり素材は一級品だったのだろう。その後、紆余曲折はあったものの、中込氏は野球人生を再開させる。奇しくも、ここでもまた“褒め言葉”がきっかけになった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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