上位確実も指名漏れ…部長が勝手に断り「絶対出さない」 意味がなかった会見場

ヤクルトなどでプレーした佐藤真一氏は社会人5年目、27歳にしてプロ入り
福岡ダイエー(現ソフトバンク)とヤクルトで通算629試合に出場した佐藤真一氏は、1992年ドラフト4位で27歳にしてようやくプロ入りを果たした。北海道拓殖銀行2年目の“ドラフト解禁イヤー”は上位指名確実と目されながらも指名漏れ。野球部長が勝手に断りを入れていたからだったが、報道陣が集結し、ひな壇が用意された会見場に出ていくことはなかった。
社会人2年目だった。「この年は全日本に入って活躍して、都市対抗でも結構打ったから」と自身でもドラフト指名への手応えを感じていた。新聞の予想も軒並み上位。オリックスのドラフト1位でパンチ(佐藤和弘氏)が指名されたときには「俺はちょうど聞いていなかったんだけど、佐藤というのが出たときは周りはドキッとしただろうね」というほど、名前が呼ばれるのは時間の問題と思われていた。しかし最後まで、その瞬間は訪れなかった。
「銀行の人事部長が野球部長だった。会社が『絶対に出さない』と言っていたのは知っていたし『プロに行くのはダメだ』と半分脅しみたいな感じだったけど、俺もカッとして『どうなっても構わないですよ』みたいな。とはいえ当然上位で呼ばれるだろうなと思っていたけど……。事前に断りを入れていたんじゃないかな。契約金をもらったら何の預金つくろうかなとか考えていたんだけどね」
翌1990年も指名はなかった。社会人4年目の1991年はドラフトを凍結。「確約じゃないけど、限りなく五輪に行けるということだったので」と日の丸を背負って大舞台に挑む道を選んだ。バルセロナ五輪では3番打者として銅メダル獲得に貢献。帰国すると、気持ちに変化が起きていた。
ダイエー入りも芽が出ず「力がなかったし大した成績も収められなかった」
「モチベーションがちょっとなくなったというか。もう俺は社会人で頑張ろうという気持ちになった」。しかし運命とは不思議なものだ。社会人5年目、再度プロ球団が熱心な姿勢を見せてくれるようになった。ダイエーを筆頭に、中日、ロッテが興味を示してくれた。「ダイエーの評価が高かったから行きたいと思っていた。球場も広くて自分を活かせるかなと」。そうして社会人で苦節5年、27歳にしてようやくプロの門が開いた。
ドラフト4位ながら、背番号は「7」で、契約金は1億円という上位さながらの条件だった。期待が大きかったことは明確。しかも最初の紅白戦では安打を重ねた。「簡単だな、なんて思っていたよ」と苦笑いで振り返るが、現実は甘くない。わずか3年間で計87試合の出場に終わることとなり「今ならわかるけど、あの時期は二線級の投手が投げていた。レベルが上がったら打てなくなって、これがプロ野球だなと思ったね。自分の力がなかったし、大した成績も収められなかった。それに2年目くらいから、ダイエーは資金力を持っていたのでトレードでどんどん動いてきたしね。秋山(幸二)さん、松永(浩美)さん獲ったり。そのままあそこにいたら、すぐ辞めていたんだろうなと思うね」。
自慢の打撃が、ルーキーイヤーは56試合で打率.180、2年目は24試合で同.071。打てないことが焦りを呼び、さらに結果が出ない悪循環に陥った。「それで何をしたかというと、セーフティバントの練習。ドームのクラブハウスの横にマシンが2台置いてあって、そこでナイターが終わったらずっとコンコンコンコンやっていた。社会人まではそういう選手じゃなかったからほとんどしたことがなかったけど、でもやればうまくなるもんだね」と若き日の思い出を懐かしんだ。
そしてわずか7試合の出場の終わった1995年オフ、ヤクルトへトレードが決まった。この移籍が佐藤氏にとって、40歳までという長いプロ野球人生に導く転機となった。
(町田利衣 / Rie Machida)