後輩のトレード報告に「残念だったな」も…自らに起きた“騒動” 一変した野球人生

ヤクルト時代の佐藤真一氏【写真提供:産経新聞社】
ヤクルト時代の佐藤真一氏【写真提供:産経新聞社】

佐藤真一氏は1995年オフに2対2の交換トレードでダイエーからヤクルトへ

 1992年ドラフト4位で福岡ダイエー(現ソフトバンク)に入団した佐藤真一氏は、1995年オフに2対2の交換トレードでヤクルトに移籍した。ダイエーでは3年間で計87試合の出場と芽が出ず「あそこにいたらすぐ辞めていたんだろうな」と振り返るほどだが、この移籍が転機となった。しかも当時ヤクルトの監督を務めていた野村克也氏の“直談判”から決まったトレードだった。

 1995年11月20日。佐藤氏は同僚で後輩の田畑一也から電話を受けた。「佐藤さん、トレードです」の報告に、「そうか、お前残念だったな」とねぎらうと、ひときわ大きな声で衝撃の言葉が返ってきた。

「何を言ってるんですか、佐藤さんも一緒ですよ」

 まさかの形で柳田聖人、河野亮との2対2のトレードであることを知った。「最初はそんなに前向きじゃなかった。『何で俺がトレードなんだ?』って」と本音も明かす。しかし不思議な“縁”があったことを知り、気持ちは変わっていった。

 秋季教育リーグ(黒潮リーグ)で、佐藤氏が当時採用されていた指名代走で出場した一戦があった。ヤクルト戦だったため、野村監督が視察に訪れていた。「たぶん左投手だったからほとんど勘だけど、たまたま3つくらい盗塁した。そうしたら野村さんが『あいつが欲しい』となったらしいんだよね。(ダイエー監督の)根本(陸夫)さんにどうせくれないだろうと思ってお願いしたら『いいですよ』ってなったと。どこに何が転がっているかわからないもんだよね」。

現在は札幌大の監督を務める佐藤真一氏【写真:町田利衣】
現在は札幌大の監督を務める佐藤真一氏【写真:町田利衣】

34歳シーズンでついにブレーク「やっと働いている実感はあったね」

 移籍初年度に出場機会を増やすも、まだ61試合。ブレークしたのは1999年のことだ。「30代半ばでもう疲れていたよ。でも絶対そこで何とか結果を残さないとダメだなと思って本当に必死だった。やっと野球選手として働いている実感はあったね」。実にプロ7年目、34歳にしてシーズン途中から3番に定着して113試合の出場で打率.341、13本塁打、48打点、10盗塁という好成績を残した。

 その前年の1998年、出場はわずか30試合24打席だった。「たまに出るのも左投手のときくらい。危機感はあった。だから最後の頑張りかな。ろうそくが消える最後の炎みたいな」と、背水の思いが佐藤氏を突き動かした。しかし2000年途中に右肘靭帯損傷と神経障害を負い、輝きは長くは続かなかった。

 2001年は自身初めて1軍出場なし。チームは日本一に輝いたが素直に喜ぶことはできなかった。「嫌なもんだよ。うれしいわけない。野球はあまり見られなかった。自分がいられる場所じゃなかったから……」と本音を明かす。2002年には84試合に出場して復活を印象付けたが、その後は出場機会を減らしていった。

 2005年の夏頃だった。球団から「どうしますか」と去就に関する話し合いの機会があり、「今年で辞めます」と決断した。27歳という“遅咲き”でのプロ入り時、掲げていた目標は「40歳まで現役」。ちょうど、40歳になっていた。当時は生え抜き選手以外では異例だった引退セレモニーも行われ、「ガッツ」の愛称で親しまれた佐藤氏がいかにファンに愛され、チームに貢献した選手であるかが表れていた。「よくやったかなとは思うね。細く長くやったなって。何かを残せたわけではないけど、3人の子どもは大きくなったし。移籍で変わったかな、ヤクルトにはありがとうだね」と穏やかに笑った。

(町田利衣 / Rie Machida)

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