「絶対に野球やめる」 首脳陣にカチン…血気盛んのドラ1候補、許せなかった“横暴”

10月25日、明大戦の始球式に登場した武田一浩氏【写真:加治屋友輝】
10月25日、明大戦の始球式に登場した武田一浩氏【写真:加治屋友輝】

NPB通算89勝・武田一浩氏が振り返る明大時代

 プロ注目の投手が、ドラフト会議の直前に一度は野球をやめていた――。NHKのMLB中継解説者として活躍中の野球評論家・武田一浩氏は、明大時代の1987年ドラフト1位指名を受けて日本ハムに入団。1年目から活躍したが、明大4年秋のリーグ戦はほとんど登板していない。首脳陣と対立し、野球と距離を置いていたのである。今年6月に還暦を迎えたNPB通算89勝右腕が、節目の年に自らの野球人生を振り返った。

 中2から本格的に投手となった武田氏。明大中野高時代もドラフト候補で9球団から話があったが、身長171センチと投手としては小柄で、6球団は内野手として獲得を検討していたという。「プロに行けるんだったら行きたいと思っていました」。ただ、高校生だった自身まで話が降りてくることはなく、父親の強い希望で明大に進学した。

 明大では1年春からベンチ入り。同年秋にはリーグ優勝を経験した。3年生の1986年秋にはカード初戦を全て完封する快挙。5完封を含む7勝を挙げて4季ぶりリーグ優勝をけん引した。「そこでプロに行けるかなと思いました」。一躍ドラフト1位候補に浮上し、4年春も4日間で3完投するなどフル回転。夏には日米大学野球にも出場した。

 ただ、酷使された影響で4年秋は「右肘の調子があまり良くなかった」と振り返る。迎えた3カード目の東大戦で“事件”が起きた。『御大』の愛称で知られる島岡吉郎監督から「先発だから頑張れ」と言われていたにもかかわらず当日朝になって「先発を代えられました」という。別の投手に先発を譲ったのである。

 さらに試合後、島岡監督から「明日、お前が投げるから頑張れ」とゲキを飛ばされたが、2戦目は再び当日朝に予定変更。「2年生に代えられて、そこで『もう、やめた!』って思ったんです」。エースのプライドが傷ついた。大渓弘文助監督が島岡監督に「武田はどこか悪いようです」と進言していたことが耳に入り「若かったのでカチンときたんです」と回顧する。

 大渓助監督とは「仲は良かったんです」と振り返る。何でも言い合えるほど仲がいい分、遠慮せずに意見をぶつけ合って衝突した。

ドラフト目玉候補が“退部騒動”…「もう野球をやめる」

「春まで『頼む』と言われて、今では考えられないぐらいのイニングを投げてきて、ちょっと調子が悪いからって、そうなるのかと思いました。しかも『これじゃあ東大に勝てない』と言われたんです。勉強では東大には勝てないけど、野球は勝てるんじゃないかと思っていた。だから『やめます』と言ってユニホームを返して帰ったんです」

 マスコミにも騒がれたドラフト目玉候補の“退部騒動”。「親父には『俺、もう絶対に野球をやめる』と言いました。理不尽なことが嫌だったんでしょうね。若かったから我慢できなかったこともあったと思うんです」。しかし、ドラフト会議が目前に迫っていた。

 父親からは「やめてもいいよ。ただドラフト1位だったら、やらなきゃいけないんじゃないか」と言われたという。それに対し「どうせ2位とか3位だから、もういいよ。やめるよ」と返した。ところが……。伊藤敦規投手を阪急との競合の末に外した日本ハムが、外れ1位で武田氏を指名したのである。

「揉めていたから敬遠したチームもあったのではないでしょうか」。そう推測する中、後にダルビッシュ有投手(パドレス)や大谷翔平投手(ドジャース)らの獲得に携わった山田正雄スカウトらが尽力。栄光のドラ1で野球を継続することになる。

 ただ、ドラフト当日は大学で会見をしていない。「ドラフト前に大学に謝罪しに行ったんですけど、(大学側が)グズグズ言ってるから『もういいや』となっていました」。運命の瞬間は自宅で迎えた。血気盛んだった武田氏らしいエピソードである。

(尾辻剛 / Go Otsuji)

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