休み時間に聞いたドラ4指名…まさかの取材なし 甲子園の英雄が“埋もれた”日

飯田哲也氏は春の選抜で1イニング3補殺&本塁打「スカウトが見に来始めた」
プロ野球はドラフト指名された選手たちが球団との交渉を経て、続々と入団する季節となった。現役時代に盗塁王のタイトルを獲得するなどヤクルト、楽天で走攻守3拍子揃った外野手として活躍した野球評論家の飯田哲也氏は、1986年秋にヤクルトからキャッチャーで4位指名を受け、プロへの道が開けた。「どこに行きたいとか、指名順とかは関係なかったです。とにかく『あー、良かったー』と安心しましたね」。39年前、“初々しい日々”を回想する。
飯田氏は東京・調布の出身。野球少年なら誰でも憧れるプロの夢はぼんやりとはあったものの、まずは「甲子園に出たい。そこが先です」。親元を離れ、千葉・木更津の拓大紅陵高校を選んだ。後には侍ジャパンU-18代表の指揮官も務める小枝守監督から身体能力を見込まれ、捕手に抜擢された。
2年生の秋、拓大紅陵は関東大会で優勝し、翌春の選抜切符を確実とした。飯田氏も満塁本塁打を含む2試合連続アーチをかけた。メディアからは注目選手の一人として取り上げられた。それでも「まだまだプロなんて全然考えられなかった」という。しかし、聖地が人生を変える。
「やっぱり“あの試合”ですよね。僕よりもっと本当に凄い人はいたと思います。でも、甲子園ですから注目度が違う。インパクトがね。『こいつ凄いな』ってなるじゃないですか。名前が売れました。運ですよね」
3年春の選抜、初戦の洲本(兵庫)戦。拓大紅陵は5回に無死一、二塁のピンチを迎えていた。投球を受けた飯田捕手は二塁走者の離塁がやや大きくなった隙を逃さず送球して刺した。次打者は送りバントを試みたが、素早い身のこなしでボールを掴むや二塁封殺。さらに2死一、二塁では再び二走の飛び出しに“強肩発動”し、仕留めた。1イニング3補殺の離れ業。バットでも8回に左翼へホームランを放ち、ワンマンショーを演じた。
2回戦は新湊(富山)に逆転負けとなったが、学校に戻ると、自身の意識と周囲が変わった。「プロに行きたいな、行けたらいいなと思い始めました。その頃からスカウトさんたちが練習を見に来るようになりました」。拓大紅陵は春の関東大会も優勝。最後の夏の千葉県大会を制し、甲子園に駒を進めた。2回戦から登場で岩国商(山口)を下したが、3回戦で東洋大姫路(兵庫)に惜敗した。
日本代表漏れで自信失うも…ドラフト4位指名に周囲が大歓声
飯田氏は輝かしい実績を残した。とはいえ、ドラフト指名される自信はなかったと述懐する。「僕は体が大きくない(身長173センチ)ですし……」。夏の甲子園後には日韓の高校野球の親善試合が開催されたが、その全日本メンバーからは漏れた。「日本代表になってないですからね。もし、選ばれていたら『絶対プロ』と考えたんじゃないかなぁ」。
その後、進路の窓口となっていた小枝監督の推薦で、社会人野球のNTT関東が内定。「監督さんがドラフトが近付いた頃に『ヤクルトが指名するって言ってたぞ』と仰ってくれた。ただ、本当になるか分かりませんから」と振り返る。
迎えた11月20日。ドラフト会議の指名スタートは午前11時だった。「特にソワソワはしてなかったですね。授業と授業の合間の休み時間に部長の川俣幸一先生がやって来て、『ヤクルトの4位だ』と伝えてくれました。『あー、良かったー。これから頑張んなきゃ』が一番の気持ちでした。だけど、地元紙とか取材を受けた記憶は全くないなぁ。あの時のドラフトは千葉県の高校生が多かったんですよ」。阪急1位の高木晃次投手(横芝敬愛高校)、同じヤクルトの2位で土橋勝征内野手(印旛高校)、ロッテ4位でチームメイトの佐藤幸彦内野手らも指名がかかった。
当日、全ての授業が終わった後。恩師の小枝監督は「プロ、いいんじゃないか。NTT関東は断らなきゃならんから、ちょっと残念だけど」と冗談交じりに言葉を弾ませてくれた。千葉の学校に送り出してくれた両親に連絡すると「本当に良かったねー」。クラスメートも野球部員も「凄いな、やったな」と、やんやの喝采が起きた。
飯田氏は、あらためて感謝する。「プロ野球選手になるには、運は大きいと思います。僕は甲子園に出場できました。けれど、1人の力では無理ですからね。たくさんの方々、みんなのおかげ。自分は運が良かったです」。まるで我が事のように支え、喜んでくれた人たちの声は、今も耳に残っている。
(西村大輔 / Taisuke Nishimura)