中村紀洋の波乱万丈な現役生活 その野球人生は今後どのような軌跡を描くのか

2軍でシーズンを終えようとしているベテラン

 セ・リーグは巨人が3年連続36度目の優勝を飾った。残りの注目はタイトル争いや、コーチ陣の組閣、ベテランの去就問題など。巨人の優勝を目の前で見せられた横浜DeNAベイスターズにも、今後の行き先が気になる選手はいる。2軍でシーズンを終えようとしているベテランの中村紀洋内野手である。

 中村は今シーズン13試合に出場して打率は.245。本塁打は0。5月6日の巨人戦(東京ドーム)でチーム方針に異を唱えたとして、翌日に1軍出場選手登録を抹消された。するとFacebookで異例の声明を発表。「走者を場面によっては動かさず、打撃に集中させてほしいとコーチに相談させてもらいました」と明かし、自身の意見を訴えていた。これが采配批判と取られた。

 野球では3番や4番など、チームのポイントゲッターが打席に立つ時、塁に走者がいた場合に盗塁のサインなどを出さずに、打席に集中させることがある。中村も元々は近鉄の主力打者だった。自分のやってきた考えとは違ったのだろう。

 以降、1軍から声がかかることなく、2軍暮らしとなった。球団側も来年、契約する意思はないとみられ、ベイスターズのユニホームを脱ぐ可能性が高い。だが、中村自身はまだまだ現役でやる意思は固い。他球団からのオファーを待つ。

 ここまでいばらの道を歩んできた中村の波乱万丈の野球人生。最初の球団、近鉄時代から、紆余曲折は始まっている。その歩みを振り返る。

○初のFA宣言とメジャー交渉が破談

 近鉄での2002年オフ、140試合、42本塁打を放ったシーズン後、中村は「中村紀洋というブランドを近鉄で終わらせてもいいものか」と自問自答し、FA宣言をした。ヤンキースに移籍した松井秀喜の穴を埋めようとする巨人などが興味を示したが交渉は難航。話がなかなかまとまらないうちに、巨人は一方でヤクルトで主砲として活躍したペタジーニの獲得に成功。中村とは破談となった。ニューヨーク・メッツとの契約も合意寸前までいくも、メッツの公式ホームページに合意前の中村の契約情報が流れてしまったこともあり、メッツに不信感を抱き、契約に至らず。中村は梨田監督のもとで、もう1度近鉄でプレーすることを決める。

○ポスティングシステムで再度、アメリカ挑戦を目指す

 2年間、近鉄でケガを抱えながらプレーし、2004年シーズン終了後の2005年1月にポスティングシステムでメジャーリーグに挑戦。近鉄と業務提携をしていたドジャースとマイナー契約をする。しかし、この1年はほとんどマイナー暮らし。メジャーでは17試合で5安打。成績が伴わず、翌年に日本球界に復帰する。

○オリックスで日本復帰も、球団と交渉難航で退団へ

 強打者であるがゆえに執拗な内角攻めにあい、左手首や左肘にデッドボールを浴び、骨折などケガに見舞われる。85試合の出場にとどまった。公傷扱いが認められず、大幅な減俸を提示された。何度も交渉を重ねていたが、折り合いがつかず、1年で退団を決意する。

○1回目の浪人生活

 折り合いがつかなかったのは、まだまだ自分にやれる自信があったからこそ。中村は強く現役続行を望み、プロ野球のキャンプが始まった時も所属なしで1人黙々と汗を流した。すると、2007年、中日の落合監督がテスト生でキャンプに参加させることを明言。沖縄キャンプを経て、育成選手で契約し、開幕直前に年俸約600万円で支配下登録。背番号99で再出発となった。真新しい気持ちでシーズンに臨み、打率.293、20本塁打、79打点。日本シリーズでも活躍し、MVPに。落合監督に恩返しをする。

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