星野仙一が付けた背番号「20」 大投手を生んだ中日エースナンバーの系譜

北京五輪では日本代表監督を務めた星野仙一氏【写真:Getty Images】
北京五輪では日本代表監督を務めた星野仙一氏【写真:Getty Images】

杉下、権藤、星野、小松…球団史を彩る錚々たる顔ぶれ

 1月4日に急逝した星野仙一氏は、現役時代、中日のエースナンバー「20」で快投を演じた。その系譜をたどっていこう。

 中日ドラゴンズは、1936年に創設された名古屋軍が前身。巨人、阪神、阪急(現オリックス)と並び、プロ野球草創期から存続する老舗球団だ。

 中日の背番号「20」は、これまで13人がつけている。

1937年春-1937年秋 三浦敏一(捕)92試合302打数55安打0本11打点 打率.182
1938年春-1938年秋 梅本政夫(外) 1試合1打数0安打0本0打点 打率.000
1939年-1947年 岩本章(外) 391試合1165打数224安打17本99打点 打率.192
1949年-1960年 杉下茂(投) 525試合215勝123敗 2841.2回 防御率2.23
1961年-1968年 権藤博(投) 210試合82勝60敗 1136回 防御率2.69
1970年 渡部司(投) 登板なし
1971年-1982年 星野仙一(投) 410試合128勝98敗34S 1736回 防御率3.64
1984年-1994年 小松辰雄(投) 232試合92勝64敗3S 1369回 防御率3.57
1996年-1999年 宣銅烈(投) 162試合10勝4敗98S 197回 防御率2.70
2001年-2004年 川崎憲次郎(投) 3試合0勝1敗0S 2.1回 防御率34.71
2005年-2013年 中田賢一(投) 186試合61勝51敗1S 966.2回 防御率3.57
2014年 山崎武司(内)(引退試合用の登録のみ)
2015年-2017年 野村亮介(投) 3試合0勝0敗0S 2.2回 防御率10.13

 戦前の1リーグ時代は選手数が少なく、2桁の番号は主として控え野手が付けていた。投手として初めて「20」を付けたのは、明治大学出身の杉下茂。フォークボールを武器に12シーズンにわたってエースとして活躍し、215勝を挙げた。杉下の活躍で「20」は中日のエースナンバーとなる。杉下氏は92歳になる今も健在だ。

 そのエースナンバーを引き継いだのが、権藤博だ。1年目に35勝を挙げる活躍。先発、救援と役割を厭わない大車輪の活躍で、「権藤、権藤、雨、権藤、雨、雨、権藤、雨、権藤」と言われる働きぶりだった。のちに野手に転向。引退後はコーチ、監督として長く活躍し、1998年には横浜ベイスターズを優勝に導く。また、78歳で迎えた2017年WBCで侍ジャパンの投手コーチを務めたことは記憶に新しい。

 権藤の引退後、1969年ドラフト2位の渡部司が付けるが、1年目の1970年は1軍登板がないまま、翌年には当時背番号「22」だった3年目の星野仙一と背番号を交換。星野は投手としては4代目の背番号「20」で、エースとして活躍した。星野も杉下と同じ明治大学出身だった。

 星野が引退後、1984年からは小松辰雄が「20」をつけ、エースの系譜を継承する。さらに、小松が引退後の1996年からは、KBO(韓国プロ野球)からやってきた宣銅烈がリリーフエースとして活躍。2001年にはヤクルトからFA移籍してきたエース川崎憲次郎が「20」を継いだが、4年間で3試合に登板したのみに終わった。

 2005年からは中田賢一が引き継ぎ、先発投手として活躍。2013年にFAでソフトバンクに移籍するまで61勝を挙げた。2014年には、引退試合のために1試合だけ選手登録をした山崎武司が「20」で登録したが、実際に背番号の付いたユニフォームは着ていない。

 2015年には、前年ドラフト1位の野村亮介が背負ったが期待に応えることができず、昨年オフに戦力外となった。

 中日が誇る栄光の背番号「20」は、現在誰も付けていない。“闘将”星野仙一の志を継ぐ選手は、今度はいつ出てくるのだろうか。あるいは、闘将の功績を称え、永久欠番となるのだろうか。

(広尾晃 / Koh Hiroo)

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